朝日新聞の記事(1967年8月23日)
(見出し) 「祇園祭」を自主製作
(小見出し) 錦之助、独立後初の作品
(囲み) 中村錦之助主演、伊藤大輔監督の時代劇映画「祇園祭」が、京都府・市の全面的な協力を得て、十一月から撮影を開始する。
この作品は、京都府政百年の記念事業の一つとして製作されるもので、内容は、西口克己の小説をもとに、十六世紀、応仁の乱によって焦土と化した京都から町衆が再建に立上がり、自治体制をつくりあげ、祇園祭を復活させるという民衆の歴史を描くもの。伊藤雄之助、小沢昭一、石坂浩二、加賀まりこ、中村勘三郎、中村賀津雄らが出演し、色彩、二時間半の大作になる。
中村錦之助は、東映を離れて一年四カ月になるが、その間一本も映画出演がなく、これが久しぶりの映画の仕事。伊藤大輔監督らと「日本映画復興協会」(代表・中村錦之助)という名の独立プロを設立し、その第一回作品として「祇園祭」の自主製作にのりだしたわけ。
映画評論家の南部僑一郎、瓜生忠夫、竹中労氏らがバックアップし、五十万枚(一枚三百円)の前売券をカンパの形でさばいて製作費にあてるという。上映方法はまだ決っていない。
同協会は広く映画人に門戸を開放し、日本映画復興の情熱と知恵を集め、年一本の劇映画製作を続けてゆくという。
錦之助、伊藤大輔、南部僑一郎の三人が揃って、東京の帝国ホテルで記者会見を行い、映画『祇園祭』の製作発表をしたのは1967年(昭和42年)8月21日だった。朝日新聞の記事はこれを伝えたもの。この日の前後3か月(すなわち1967年5月~11月の6か月)の経緯を知る資料としては、竹中労が「キネマ旬報」(1969年1月上旬号)に寄稿した「まぼろしの祇園祭」に書かれてある竹中自身のメモが唯一無二である。
映画『祇園祭』の企画がどのように進められていったかに関しては、三つの段階に分けて知る必要があると思う。
一、伊藤大輔の腹案段階
二、錦之助が加わって、伊藤と二人で西口克己の小説「祇園祭」の映画化権を買い、東映に企画を出すが、それが却下されるまで
三、竹中労が「祇園祭」の映画化を企図し、京都府、京都市の支援を取りつけ、上記の製作発表にこぎつけるまで
ここではまず、第三の段階から整理しておきたい。竹中労のメモによると以下の経緯をたどったという。
1967年5月16日 西口克己の京都宅を訪問、映画化について意見をきく。
*竹中は監督に大島渚を考えていたが、西口は大島には反対で山本薩夫を強く推す。
*西口の小説「祇園祭」の映画化権は数年前(刊行時の1961年か?)に伊藤大輔と錦之助に譲渡してあった。
*町衆の蜂起によって自治体制をつくりあげ、民衆自らの手で祇園会を執行したことがテーマである「祇園祭」の映画化は革新京都が催す「府政百年記念行事」にふさわしいことで意見が一致。
*西口は京都府関係に働きかけ、実現のための工作を開始しようと確約。
5月17日 大阪労音(大阪勤労者音楽協議会)の杉岡事務局長に会う。オペラ「祇園祭」を上演した大阪労音の協力をとりつける。
*大阪労音が創立十五周年記念としてミュージカル「祇園祭」を上演したのは1966年(昭和41年)2月。主演は島倉千代子、立川澄人。
5月18日 京都で東映俳優労組の宮崎博委員長と会い、映画革新運動の作戦を練り上げる。
*署名を寄せた支援者を基盤にして「祇園祭」製作の運動体を構築しようと企図。その支援者は450名を超える映画人、文化人、ジャーナリストで、映画俳優では錦之助、伊藤雄之助、三船敏郎、勝新太郎、小沢昭一、三国連太郎など。
6月8日 大島渚と会う。松竹京都撮影所にて。
6月9日 山本薩夫と会う。あまり興味を示さず。
同日 西口、X氏(京都府議会の有力者)と打合せ。伊藤大輔監督、錦之助主演、脚本鈴木尚之で最終的に合意。
6月12日正午 歌舞伎座楽屋で錦之助と会い、初めて「祇園祭」製作の計画を打ち明ける。
*竹中の申し出に錦之助快諾。歌舞伎座公演の千秋楽(6月30日)の後、錦之助は積極的に動き出す。
7月X 日本映画復興協会を設立。資本金300万円、代表取締役:小川衿一郎(中村錦之助)。
*竹中労、伊藤大輔、小川三喜雄が役員になる。本社は伊藤の京都宅の住所。
*同協会は『祇園祭』の製作母体として、公的な団体を要請されて作ったもの。
*伊藤大輔が名称を提唱したという。
8月16日 淡路恵子が男児(晃廣)を出産。
8月17日、錦之助入洛。
8月19日、京都にて『祇園祭』の製作発表。蜷川知事、錦之助、伊藤大輔、竹中労が同席。
8月21日 帝国ホテルで記者会見。