12月22日の午後――。
正月作品『殿さま弥次喜多 捕物道中』が昨日クランク・アップして、錦之助は京都から弟の賀津雄といっしょに東京へ帰って、青山の実家にいた。
今年の映画の仕事は全部終わってほっとした気分だったが、まだゆっくり休むわけにはいかなかった。実家には一日だけ居て、夜にはまた賀津雄とともに沖縄へ飛行機で旅立つのだ。沖縄の錦之助後援会の招きで、那覇市の劇場で舞台挨拶をして、舞踊と立廻りの実演を行なうためである。錦之助にとっては初めての沖縄で、クリスマスをはさむ一週間の滞在で観光も兼ねていたので、わくわくして心も浮きたっていた。
旅行の仕度をしている錦之助に、東映本社にいる兄の三喜雄から電話が入った。来年撮る映画の企画についての話であった。
「まだ本決まりじゃないんだけど、すごい企画があるんだよ」
三喜雄の声から興奮ぶりが伝わってくる。
「へえ、どんな?」
「企画部の鈴木君から、ぜひやらないかって言われたんだ」
「なんだよ。もったいぶらないで早く言えよ」
「実は、近松の『梅川・忠兵衛』をさ、来年の夏あたりに映画にしようって話なんだ。やるかい、忠兵衛?」
「えっ!やるに決まってるじゃないか。来たか忠さん待ってたホイだ」
「真面目に聞けよ。ホンは成沢さんが書いて、監督は吐夢さんが引き受けるってことなんだよ」
「ほんとかよ。すごいね」
「この企画、進めていいよな」
「いいよ。よきにはからえ!」
電話を切って、錦之助は小躍りして喜んだ。
いつか絶対に、近松の世話物の主人公をやってみたい。これは錦之助が歌舞伎役者だった二十歳の頃に抱いた夢であった。その頃はちょうど近松生誕三百年(昭和28年)で、歌舞伎界は近松ブームだった。錦之助もその中にどっぷり浸かって、近松の劇作の素晴らしさに感激し、大きな影響を受けたのである。
映画界に入ってから、この夢は願望に変わり、錦之助はなんとかそれを実現させたいと思っていた。心中物では「曽根崎心中」の徳兵衛、いわゆる犯罪物では「女殺油地獄」の与兵衛がとくに演じてみたい役であった。
3年ほど前、錦之助は「女殺油地獄」の与兵衛をぜひやらせてほしいと、専務のマキノ光雄に進言したことがあった。しかし、マキノは、首を縦に振らなかった。極道息子で女殺しの役だから錦之助には向かないと考えたのだろう。そのうち「女殺油地獄」は東宝に先取りされ、映画にされてしまった。主役の与兵衛は、錦之助の歌舞伎時代からのライバル中村扇雀だった。映画俳優としては鳴かず飛ばずだった扇雀が熱演して高い評価を受け、映画もヒットした。その時、錦之助は歯ぎしりするほどの悔しさを味わった。昨年の秋の終わりのことである。(東宝カラー作品『女殺し油地獄』は、堀川弘通監督、橋本忍脚本、新珠三千代、中村鴈治郎共演、昭和32年11月公開)
また、一昨年の夏に、近松原作の映画を内田吐夢監督が撮るという話を人づてに聞いた時には、錦之助は自分にお声がかかるのではないかと心待ちにしていた。が、それも失望に終った。『暴れん坊街道』(昭和32年2月公開)は、「重の井子別れ」の映画化であり、配役上、自分のやれるような役はなかった。それで納得がいったのである。
そんなこともあって、錦之助は近松の主人公を演じることをあきらめかけていた。それが、兄の三喜雄からの思いがけない知らせである。
「冥途の飛脚」の忠兵衛は、願ってもない役であった。
そして、もし自分が忠兵衛を演じることになるとすれば、錦之助は何か宿縁のようなものを感じないわけにはいかなかった。忠兵衛は、今は亡き伯父の吉右衛門の晩年の当たり役だったからだ。(つづく)
正月作品『殿さま弥次喜多 捕物道中』が昨日クランク・アップして、錦之助は京都から弟の賀津雄といっしょに東京へ帰って、青山の実家にいた。
今年の映画の仕事は全部終わってほっとした気分だったが、まだゆっくり休むわけにはいかなかった。実家には一日だけ居て、夜にはまた賀津雄とともに沖縄へ飛行機で旅立つのだ。沖縄の錦之助後援会の招きで、那覇市の劇場で舞台挨拶をして、舞踊と立廻りの実演を行なうためである。錦之助にとっては初めての沖縄で、クリスマスをはさむ一週間の滞在で観光も兼ねていたので、わくわくして心も浮きたっていた。
旅行の仕度をしている錦之助に、東映本社にいる兄の三喜雄から電話が入った。来年撮る映画の企画についての話であった。
「まだ本決まりじゃないんだけど、すごい企画があるんだよ」
三喜雄の声から興奮ぶりが伝わってくる。
「へえ、どんな?」
「企画部の鈴木君から、ぜひやらないかって言われたんだ」
「なんだよ。もったいぶらないで早く言えよ」
「実は、近松の『梅川・忠兵衛』をさ、来年の夏あたりに映画にしようって話なんだ。やるかい、忠兵衛?」
「えっ!やるに決まってるじゃないか。来たか忠さん待ってたホイだ」
「真面目に聞けよ。ホンは成沢さんが書いて、監督は吐夢さんが引き受けるってことなんだよ」
「ほんとかよ。すごいね」
「この企画、進めていいよな」
「いいよ。よきにはからえ!」
電話を切って、錦之助は小躍りして喜んだ。
いつか絶対に、近松の世話物の主人公をやってみたい。これは錦之助が歌舞伎役者だった二十歳の頃に抱いた夢であった。その頃はちょうど近松生誕三百年(昭和28年)で、歌舞伎界は近松ブームだった。錦之助もその中にどっぷり浸かって、近松の劇作の素晴らしさに感激し、大きな影響を受けたのである。
映画界に入ってから、この夢は願望に変わり、錦之助はなんとかそれを実現させたいと思っていた。心中物では「曽根崎心中」の徳兵衛、いわゆる犯罪物では「女殺油地獄」の与兵衛がとくに演じてみたい役であった。
3年ほど前、錦之助は「女殺油地獄」の与兵衛をぜひやらせてほしいと、専務のマキノ光雄に進言したことがあった。しかし、マキノは、首を縦に振らなかった。極道息子で女殺しの役だから錦之助には向かないと考えたのだろう。そのうち「女殺油地獄」は東宝に先取りされ、映画にされてしまった。主役の与兵衛は、錦之助の歌舞伎時代からのライバル中村扇雀だった。映画俳優としては鳴かず飛ばずだった扇雀が熱演して高い評価を受け、映画もヒットした。その時、錦之助は歯ぎしりするほどの悔しさを味わった。昨年の秋の終わりのことである。(東宝カラー作品『女殺し油地獄』は、堀川弘通監督、橋本忍脚本、新珠三千代、中村鴈治郎共演、昭和32年11月公開)
また、一昨年の夏に、近松原作の映画を内田吐夢監督が撮るという話を人づてに聞いた時には、錦之助は自分にお声がかかるのではないかと心待ちにしていた。が、それも失望に終った。『暴れん坊街道』(昭和32年2月公開)は、「重の井子別れ」の映画化であり、配役上、自分のやれるような役はなかった。それで納得がいったのである。
そんなこともあって、錦之助は近松の主人公を演じることをあきらめかけていた。それが、兄の三喜雄からの思いがけない知らせである。
「冥途の飛脚」の忠兵衛は、願ってもない役であった。
そして、もし自分が忠兵衛を演じることになるとすれば、錦之助は何か宿縁のようなものを感じないわけにはいかなかった。忠兵衛は、今は亡き伯父の吉右衛門の晩年の当たり役だったからだ。(つづく)