近松門左衛門の「冥途の飛脚」を東映が映画化する企画が持ち上がったのは、昭和33年の暮であった。
きっかけは、シナリオライターの成沢昌茂が12月半ばに渋谷の東横ホールで「恋飛脚大和往来」を観たことだった。
近松の浄瑠璃「冥途の飛脚」を改作して歌舞伎狂言にしたのが「恋飛脚大和往来」である。江戸時代後期から幾度となく上演されてきた人気の高い世話物で、登場する男女の主人公の名を借りて、通称「梅川・忠兵衛」、略して「梅忠」と呼ばれている。梅川は大坂・新町の女郎、忠兵衛は飛脚問屋亀屋の養子跡継ぎであるが、忠兵衛が公金を横領して、梅川を身請けし、二人で駆け落ちする話である。
この年12月の東横ホールでは、守田勘弥(十四代目)の忠兵衛、市川松蔦(三代目)の梅川で、「封印切」の場と「新口村」の場の二幕が上演されていた。
その時、東映社員の鈴木尚之が成沢昌茂とともに芝居を観ていた。鈴木は、日大芸術学部卒業で成沢の後輩であった。のちに鈴木尚之は、成沢が『宮本武蔵』第一部のシナリオを書く時に助手を務め、その後シナリオライターとして一本立ちするが、この頃はまだ東映本社の企画本部にいて、映画のプロットを書いたり、シナリオの改訂を手伝ったりしていた。
芝居がはねたあと、二人の話がはずんだ。「梅川・忠兵衛」を映画にしてみたらどうかということになって、鈴木が成沢にシナリオの執筆を勧めた。
「錦ちゃんが忠兵衛をやるのなら、ぼくが書いてもいいですね」
成沢は、この年すでに錦之助主演作品のシナリオを二本書いていた。アメリカ映画の西部劇を翻案した異色の股旅映画『風と女と旅鴉』と柴田錬三郎原作の『美男城』である。前者は加藤泰監督が撮り、4月に公開されていたが、後者は佐々木康監督によって来年早々にクランクインする予定であった。
成沢は、『風と女と旅鴉』で主役を演じた錦之助を見て、スター性と演技力を兼ね備えた稀有な役者であると感じ、錦之助のためにシナリオを書く意欲を大いにそそられた。錦之助も成沢の書いたシナリオは、これまで出演した娯楽的な映画のシナリオとは違い、人間の心理が深いところまで描かれていると感じ、高く評価していた。
成沢は、仕事の関係上、錦之助の兄で東映のプロデューサーの小川三喜雄(貴也)と何度か会い、親しくなった。三喜雄は、錦之助の主演映画を一手に引き受け、企画の段階からタッチし、会社上層部と製作の交渉をしたり、シナリオライターや監督と打合せをしたりしていた。
鈴木も三喜雄とは親しかった。同じ企画本部に所属していて、企画について相談し合ったりしていた。二人とも昭和4年10月生まれで、東映入社も昭和29年の同期であった。
「三喜雄さんには、ぼくから訊いてみましょう」と鈴木は言った。
問題は、監督と梅川役の女優である。(つづく)
きっかけは、シナリオライターの成沢昌茂が12月半ばに渋谷の東横ホールで「恋飛脚大和往来」を観たことだった。
近松の浄瑠璃「冥途の飛脚」を改作して歌舞伎狂言にしたのが「恋飛脚大和往来」である。江戸時代後期から幾度となく上演されてきた人気の高い世話物で、登場する男女の主人公の名を借りて、通称「梅川・忠兵衛」、略して「梅忠」と呼ばれている。梅川は大坂・新町の女郎、忠兵衛は飛脚問屋亀屋の養子跡継ぎであるが、忠兵衛が公金を横領して、梅川を身請けし、二人で駆け落ちする話である。
この年12月の東横ホールでは、守田勘弥(十四代目)の忠兵衛、市川松蔦(三代目)の梅川で、「封印切」の場と「新口村」の場の二幕が上演されていた。
その時、東映社員の鈴木尚之が成沢昌茂とともに芝居を観ていた。鈴木は、日大芸術学部卒業で成沢の後輩であった。のちに鈴木尚之は、成沢が『宮本武蔵』第一部のシナリオを書く時に助手を務め、その後シナリオライターとして一本立ちするが、この頃はまだ東映本社の企画本部にいて、映画のプロットを書いたり、シナリオの改訂を手伝ったりしていた。
芝居がはねたあと、二人の話がはずんだ。「梅川・忠兵衛」を映画にしてみたらどうかということになって、鈴木が成沢にシナリオの執筆を勧めた。
「錦ちゃんが忠兵衛をやるのなら、ぼくが書いてもいいですね」
成沢は、この年すでに錦之助主演作品のシナリオを二本書いていた。アメリカ映画の西部劇を翻案した異色の股旅映画『風と女と旅鴉』と柴田錬三郎原作の『美男城』である。前者は加藤泰監督が撮り、4月に公開されていたが、後者は佐々木康監督によって来年早々にクランクインする予定であった。
成沢は、『風と女と旅鴉』で主役を演じた錦之助を見て、スター性と演技力を兼ね備えた稀有な役者であると感じ、錦之助のためにシナリオを書く意欲を大いにそそられた。錦之助も成沢の書いたシナリオは、これまで出演した娯楽的な映画のシナリオとは違い、人間の心理が深いところまで描かれていると感じ、高く評価していた。
成沢は、仕事の関係上、錦之助の兄で東映のプロデューサーの小川三喜雄(貴也)と何度か会い、親しくなった。三喜雄は、錦之助の主演映画を一手に引き受け、企画の段階からタッチし、会社上層部と製作の交渉をしたり、シナリオライターや監督と打合せをしたりしていた。
鈴木も三喜雄とは親しかった。同じ企画本部に所属していて、企画について相談し合ったりしていた。二人とも昭和4年10月生まれで、東映入社も昭和29年の同期であった。
「三喜雄さんには、ぼくから訊いてみましょう」と鈴木は言った。
問題は、監督と梅川役の女優である。(つづく)