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ラピュタ阿佐ヶ谷で『海の若人』を見る

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半年近くブログを休んでしまった。
きのう、錦之助映画ファンの会の方たち数名とお会いし、何でもいいから書いてほしいという要望をいただいた。私もずっと気にはしていたのだが、錦之助関係の資料を調べることやノートをとることのほうに専念して、ブログを書くことがおろそかになっていた。涼しくなり、夏バテからも回復したので、きょうからブログ再開したい。
あまり張り切らずに、気軽に書いていこうと思う。

さて、ラピュタ阿佐ヶ谷で現在、「東映文芸映画の宴」という特集をやっていて、約2か月間の特集期間に錦之助主演作が5本上映される。
『海の若人』『ちいさこべ』『花と龍』『続花と龍』『武士道残酷物語』である。
で、きのうは『海の若人』を見てきた。
この映画を映画館で見るのは本当に久しぶりである。調べてみたら、2009年11月、新文芸坐での錦之助映画祭りの時見て以来なのだ。9年近く前だ。
ビデオではこのブログに『海の若人』を6回にわたって書いた時(2015年5月末から6月初め)、数度見ているが…。

『海の若人』を今回また見て、感じたことを書いてみたい。ずっと前に書いたことと重複するかもしれないが、悪しからず。

まず、22歳の錦ちゃんであるが、時代劇の錦ちゃんとはイメージがずいぶん違う。ほぼノー・メークで普通の髪の毛だからか、時代劇の時より若く見える。未成年のようで、学生服が良く似合う。甘いマスクが余計引き立ち、いいとこのお坊ちゃんという感じ。当時の錦ちゃんファンが錦ちゃんのことを「マシュマロ」にたとえたことがあったが、分からないこともない。
演技も、初めての現代劇とは思えないほど、しっかりしている。現代語もまったく自然で、違和感なし。

ひばりちゃんは、17歳(もうすぐ18歳)だが、この頃はちょっとふっくらしていた。大根足で、足首も太い(きのう『海の若人』の後、ひばり主演の『恋愛自由型』を見たのだが、20歳のひばりちゃんはずいぶん痩せて、足もほっそりとしていた。大根足も治るのかと不思議に思った)。
ひばりちゃんもセーラー服が似合う。ほとんどのシーンはセーラー服で通していたが、兄の結婚式のシーンでは着物、家にいるシーンではセーターにスカートの私服だった。セーター着では胸のふくらみが目立っていた。ひばりちゃんの演技は、相変わらず自然で上手。

錦ちゃんとひばりちゃんの二人のシーンはどれも印象的でほほえましい。
ピクニックの帰り、バスの中で森永ミルクチョコを半分に分け合って食べたあと、芸者の田代百合子が乗り込んできて、パーカーの万年筆が布団の中にあったと言って、錦ちゃんがあわて、ひばりちゃんが怒るところが面白い。
この映画、パーカーの万年筆という小道具が実にうまくストーリーに生かされている。
森永チョコレート・コンビは確か昭和29年暮には錦之助と北原三枝だったと、どこかで読んだ気がする。とすると、ひばりが錦ちゃんと組むため、森永の宣伝を買って出て、北原三枝と代わったのだろうか。

海岸で星十郎と対決する場面。錦ちゃんのあざやかな一本背負いが2本決まる。錦ちゃんは、中学時代、講道館で柔道を習っていた。昔とった杵柄か。
芸者の田代百合子を錦ちゃんがおんぶして歩くところは、場所を変えながら3カットもあった。よくもまあ、錦ちゃんファンが嫌うおんぶのシーンをこんなに長く撮ったものだと思う。田代百合子は豊満で、いかにも重そう。

『海の若人』の主題歌(木下忠司作曲)の歌詞を書いておく。
おも舵、取り舵
とも綱、解いて
錨を上げたら、出発だ
若い僕らの憧れ乗せた
船は海原越えていく



『ちいさこべ』を見る

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ラピュタ阿佐ヶ谷通いが続いている。
先週土曜は、支配人の石井紫(ゆかり)さんに頼まれて、私の作った錦之助関係の本を6種類持っていった。ロビーの映画書籍コーナーに置いて、販売してくれるというのだ。ラピュタでは、これまで東映作品の特集があるたびに、何度も売ってもらっている。ちょぼちょぼしか売れないのだが、ジュンク堂や紀伊國屋書店よりも売れるので嬉しい。
ラピュタの石井さんとはもう十数年の知り合いである。映画館には珍しい女性の支配人で、しかも昔から評判の美女。最初に会った時は、可愛らしい女子大生のようだったが、今もほとんど変わらない。彼女のプライベートなことは全然知らないが、きっと映画が恋人なのだろう、と私は勝手に思っている。
で、土曜は本を納品した後、『娘の中の娘』を見た。『恋愛自由型』と同じく、ひばりちゃんと健さんのラブ・コメディで、監督も佐伯清だった。しかし、こっちは出来があまり良くなかった。

昨日は、『ちいさこべ』を見にいった。
昼過ぎに行って、1階のロビーの書籍コーナーを見ると、テーブルの上の真ん中に、他の出版社の本を脇にのけるかのように、私の持っていった本がずらっと平積みで並んでいる。
石井さんがいたので、「いいとこ置いてくれて、ありがとう!」と言うと、「あのー、もう2冊売れちゃったのがあるんで、また今度持って来てくれませんか」と石井さん。錦之助映画ファンの会の記念誌「青春二十一」の第三集なのだが、3冊入れて2冊売れてしまい、残り1冊。錦ちゃんファンが買ったのだろう。
ロビーに映画狂の落語家・快楽亭ブラックさんがいたので、声をかけ、ちょっと話をする。『ちいさこべ』は何年か前にフィルムセンターで見たそうだが、いい映画だったので、また見に来たとのこと。
ラピュタは2階が映画館になっていて、切符の番号順に案内されて外階段から2階へ上がっていくのだが、48席の小さな名画座である。入りが悪いと数名しかいない寂しい時もあるが、この日の『ちいさこべ』は、雨の日にもかかわらず、30名以上入っていたかと思う。



さて、『ちいさこべ』(田坂具隆監督、錦之助主演、昭和37年東映京都作品)、171分の大作である。私がスクリーンで見るのは3度目なのだが、今度も途中で泣けてしまった。前回も前々回も同じ箇所だった。この映画を見たことのない人には分からないと思うが、焼け跡で子供達が人形劇をやる場面になると、目がうるんでくる。私だけではなく、見た人の多くがそうなのではないかと思う。感動して胸が痛む映画というのは、そうざらにあるわけではないが、私にとって『ちいさこべ』はその一本である。山本周五郎の原作は、ずいぶん昔に読んだことがあるが、映画の方が感動的だった気がする。

映画が終わって、感動さめやらないまま席を立とうとすると、ラピュタ館主の才谷遼さんも見ていた。彼とも知り合いなので、挨拶すると、早速お茶でも飲みに行こうという話になる。
で、才谷さんと近くの喫茶店へ行き、1時間余り雑談。また、道楽で映画を撮ったと言うので、その話を聞く。現在編集中とのこと。宣伝用のチラシをもらう。原案・脚本・監督才谷遼、映画のタイトルは『ニッポニアニッポン』。
才谷さんと別れて、馴染みのラーメン屋で夕食をとり、ラピュタでもう一本映画を見た。

『カレーライス』(渡辺祐介監督、昭和37年東映東京作品)。初めて見る映画である。阿川弘之の小説が原作だそうだが、その小説は知らない。江原真二郎と大空真弓が主演の恋愛喜劇で、出版社を首になった二人がカレーライス屋を始める話なのだが、出来のほどはまあまあだった。面白く作ろうとして、所々で客受けを狙ったのだろう。封切り時のことは知らないが、今見るとあざとさが目立って、笑えない。共演者の若水ヤエ子、世志凡太は、当時は人気のあった喜劇役者だったが、もう見るに堪えない。
それに江原さんには悪いが、こういう三枚目のような役には向かない感じがした。江原真二郎と言えば、今井正監督作品の『米』『純愛物語』の青年役、時代劇では内田吐夢監督作品『宮本武蔵』五部作での吉岡清十郎役などの印象が強すぎるからだろう。
私が見たこの回は客の入りも悪く、10名ほどだった。
『カレーライス』、才谷さんの話だと、ラピュタで上映するのは二度目で、前回は江原さんご自身が見に来たそうだ。才谷さんがこの映画、面白いから見てよ、と勧めるから見たのだが、残念ながらそんなに面白くなかった。


錦之助映画祭りをラピュタ阿佐ヶ谷で

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ラピュタ阿佐ヶ谷で来年の春、「錦之助映画祭り」(仮題)を催すことになりそうだ。
きのう、支配人の石井さんといろいろ話して、ぜひラピュタで特集を組みたいので協力してほしいと要請された。
私が代表をつとめる錦之助映画ファンの会では、これまでずっと池袋の新文芸坐で錦之助映画祭りを企画開催してきたのだが、2013年11月の「錦之助よ、永遠なれ!」(下の画像)を最後にやっていない。
ラピュタではこれまで錦之助の映画をいろいろ上映してきたが、錦之助だけの特集を組むのは初めてである。時代劇俳優の特集では何年か前に近衛十四郎をやっているが、それ以来ではあるまいか。
今回の「絢爛 東映文芸映画の宴」では錦之助主演作を5本上映しているが、来年の春(3月~5月の約2ヶ月間)にやるとなれば、この5本を除き、30本くらい上映することになるだろう。
ニュープリントも、ラピュタと錦之助映画ファンの会で製作費を出し合って、2,3本は作ろうと思っている。
乞うご期待!




京都での催し

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 今月末から来月初めにかけて、京都で古い邦画を上映する催しがあるそうだ。
 今年は、溝口健二、伊藤大輔、内田吐夢の三巨匠の生誕120年なので、それを記念して、「京都ヒストリカ国際映画祭」(会場:京都文化博物館)でこの三人の映画を数本ずつ上映するという。
 溝口の現存する最も古い映画「ふるさとの歌」(1925年)は見たことがないのでぜひ見たいと思う。伊藤大輔の「長恨」(1926年)と吐夢の喜劇「汗」(1930年)は以前一度見たことがあるが、再見したい。伊藤大輔の「斬人斬馬剣」(1929年)は20数分の断片だけだが、ずっと見逃してきたので、見たい。ほかにも「折鶴お千」「瀧の白糸」「忠次旅日記」「警察官」などをやるという。
 それと、沢島監督の追悼上映があり、3本やる。「殿さま弥次喜多」「ひばり・チエミの弥次喜多道中」「白馬城の花嫁」。
詳しくは「京都ヒストリカ国際映画祭」のHPをご覧あれ。
http://historica-kyoto.com/

 また、今年は、映画「祇園祭」の製作公開50年周年なので、上映会(10月27日)とシンポジウム(28日)が京都大学で催される。人文研アカデミーという団体の催しで、先日、主宰者の谷川建司さんから、招待状とチラシをいただいた。谷川さんとは去年会って、「祇園祭」と錦之助のことをいろいろお話したことがある。シンポジウムは、映画研究者たち発表会なので、あまり興味が湧かないのだが、錦之助研究の参考になるかもしれない。
まあ、そんなわけで、今、京都へ泊りがけで行こうかどうかと迷っている。





映画『祇園祭』ノート(1)

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朝日新聞の記事(1967年8月23日)

(見出し) 「祇園祭」を自主製作
(小見出し) 錦之助、独立後初の作品
(囲み) 中村錦之助主演、伊藤大輔監督の時代劇映画「祇園祭」が、京都府・市の全面的な協力を得て、十一月から撮影を開始する。
 
 この作品は、京都府政百年の記念事業の一つとして製作されるもので、内容は、西口克己の小説をもとに、十六世紀、応仁の乱によって焦土と化した京都から町衆が再建に立上がり、自治体制をつくりあげ、祇園祭を復活させるという民衆の歴史を描くもの。伊藤雄之助、小沢昭一、石坂浩二、加賀まりこ、中村勘三郎、中村賀津雄らが出演し、色彩、二時間半の大作になる。
 中村錦之助は、東映を離れて一年四カ月になるが、その間一本も映画出演がなく、これが久しぶりの映画の仕事。伊藤大輔監督らと「日本映画復興協会」(代表・中村錦之助)という名の独立プロを設立し、その第一回作品として「祇園祭」の自主製作にのりだしたわけ。
 映画評論家の南部僑一郎、瓜生忠夫、竹中労氏らがバックアップし、五十万枚(一枚三百円)の前売券をカンパの形でさばいて製作費にあてるという。上映方法はまだ決っていない。
 同協会は広く映画人に門戸を開放し、日本映画復興の情熱と知恵を集め、年一本の劇映画製作を続けてゆくという。

 
 錦之助、伊藤大輔、南部僑一郎の三人が揃って、東京の帝国ホテルで記者会見を行い、映画『祇園祭』の製作発表をしたのは1967年(昭和42年)8月21日だった。朝日新聞の記事はこれを伝えたもの。この日の前後3か月(すなわち1967年5月~11月の6か月)の経緯を知る資料としては、竹中労が「キネマ旬報」(1969年1月上旬号)に寄稿した「まぼろしの祇園祭」に書かれてある竹中自身のメモが唯一無二である。
 
 映画『祇園祭』の企画がどのように進められていったかに関しては、三つの段階に分けて知る必要があると思う。
 一、伊藤大輔の腹案段階
 二、錦之助が加わって、伊藤と二人で西口克己の小説「祇園祭」の映画化権を買い、東映に企画を出すが、それが却下されるまで
 三、竹中労が「祇園祭」の映画化を企図し、京都府、京都市の支援を取りつけ、上記の製作発表にこぎつけるまで

 ここではまず、第三の段階から整理しておきたい。竹中労のメモによると以下の経緯をたどったという。

 1967年5月16日 西口克己の京都宅を訪問、映画化について意見をきく。
 *竹中は監督に大島渚を考えていたが、西口は大島には反対で山本薩夫を強く推す。
 *西口の小説「祇園祭」の映画化権は数年前(刊行時の1961年か?)に伊藤大輔と錦之助に譲渡してあった。
 *町衆の蜂起によって自治体制をつくりあげ、民衆自らの手で祇園会を執行したことがテーマである「祇園祭」の映画化は革新京都が催す「府政百年記念行事」にふさわしいことで意見が一致。
 *西口は京都府関係に働きかけ、実現のための工作を開始しようと確約。

 5月17日 大阪労音(大阪勤労者音楽協議会)の杉岡事務局長に会う。オペラ「祇園祭」を上演した大阪労音の協力をとりつける。
 *大阪労音が創立十五周年記念としてミュージカル「祇園祭」を上演したのは1966年(昭和41年)2月。主演は島倉千代子、立川澄人。
 
 5月18日 京都で東映俳優労組の宮崎博委員長と会い、映画革新運動の作戦を練り上げる。
 *署名を寄せた支援者を基盤にして「祇園祭」製作の運動体を構築しようと企図。その支援者は450名を超える映画人、文化人、ジャーナリストで、映画俳優では錦之助、伊藤雄之助、三船敏郎、勝新太郎、小沢昭一、三国連太郎など。

 6月8日 大島渚と会う。松竹京都撮影所にて。
 6月9日 山本薩夫と会う。あまり興味を示さず。
 同日 西口、X氏(京都府議会の有力者)と打合せ。伊藤大輔監督、錦之助主演、脚本鈴木尚之で最終的に合意。

 6月12日正午 歌舞伎座楽屋で錦之助と会い、初めて「祇園祭」製作の計画を打ち明ける。
*竹中の申し出に錦之助快諾。歌舞伎座公演の千秋楽(6月30日)の後、錦之助は積極的に動き出す。

 7月X 日本映画復興協会を設立。資本金300万円、代表取締役:小川衿一郎(中村錦之助)。
 *竹中労、伊藤大輔、小川三喜雄が役員になる。本社は伊藤の京都宅の住所。
 *同協会は『祇園祭』の製作母体として、公的な団体を要請されて作ったもの。
 *伊藤大輔が名称を提唱したという。

 8月16日 淡路恵子が男児(晃廣)を出産。

 8月17日、錦之助入洛。
 8月19日、京都にて『祇園祭』の製作発表。蜷川知事、錦之助、伊藤大輔、竹中労が同席。
 8月21日 帝国ホテルで記者会見。

映画『祇園祭』ノート(2)

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 帝国ホテルに芸能担当記者を集めて、映画『祇園祭』の製作発表が行われたのは1967年(昭和42年)8月21日であるが、その時点では同年11月にクランクインする予定であった。しかし、それが延びに延びて、実際にクランクインしたのは翌年の1968年(昭和43年)8月12日であった(その前の7月17日に祇園祭山鉾巡行の実写を撮影しているが、これは、クランクインとは言えまい)。つまり、製作発表から約1年後、当初の予定から9か月も遅れたわけだ。
その間に、何があったかについては、後述したい。

 実は、初めて公に『祇園祭』の製作が発表されたのは、8月19日の土曜の夕刻、京都府庁が主催する夏の恒例行事「二百万人盆踊り」大会においてであった。場所は府大グラウンド、1万人以上の市民が集まったのではないだろうか。マスコミ関係者も各社から取材に来ていた。
 午後7時から開会式が始まり、富井京都市長のあと、蜷川虎三京都府知事が挨拶に立ち、ゲストの錦之助を紹介。

「錦之助と虎三、まことにおかしな組合せだが、こんど『祇園祭』というたいへんな映画を製作します。永田さんとか、大川さんとかいう資本家から、京都町衆の手に映画を取り戻す大事業であります。一つ、府民のみなさんのご協力をお願いしたい」

 蜷川知事は、「府政百年記念」事業の一環として『祇園祭』製作というアドバルーンを景気よく打ち上げたのである。
 続いて錦之助がマイクの前に立ち、おそらく、いつものように簡単に挨拶。
「ぼくがずっとやりたかった映画です。がんばります。お引き立ての方、よろしくお願いいたします」と言って、深々と頭を下げると、会場に集まった市民は万雷の拍手を送ったにちがいない。
 錦之助と蜷川知事、富井市長が固い握手を交わすのを見ながら、仕掛け人の竹中労は、「かくてカブラ矢は弦を離れた」と感じたという。

映画『祇園祭』ノート(3)

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 盆踊り大会の翌日(8月20日)、午前10時より、映画『祇園祭』のスタッフ全体会議が京都の某神社の社務所を借りて開かれた。
 主な出席者は、伊藤大輔、中村錦之助、西口克己、竹中労、八尋不二(脚本担当)、加藤泰(共同監督)、滝沢一(映画評論家)、井川徳通(美術担当)、中岡清(装飾担当)、進藤誠吾(小川企画の製作部長)、浮田洋一(実務進行担当)、宮崎博(東映俳優労働組合委員長)ほか。
『祇園祭』の製作前に監督以下のスタッフが一堂に会するのは初めてだった。そして、おそらくその後こうした会議は二度と開かれず、また翌1968年の夏前までも開かれないまま、『祇園祭』はクランクインしたようだ。また、この12名のうち、最後までスタッフを離脱することなく、クランクイン後も製作に携わったメンバーは、伊藤、錦之助、西口、井川、中岡の5名にすぎない。
 
 この会議で確認ないし決定した事項は以下の通り(「キネ旬」1969年1月下旬号の竹中労「続まぼろしの『祇園祭』」参照)。

一、クランクインは今年(1967年)11月。撮影は元・松竹京都撮影所(同所は65年夏に閉鎖以後貸スタジオになっていた)。封切は来年4月を予定。

二、製作費は1億5千万円。1億円を京都府から借入れ、撮影に入るが、封切前までに前売券(300円)を50万枚売って、返済にあてる。

三、上映方法はフリー・ブッキング制。大手映画会社のブロック・ブッキング制に対抗し、各社の系統館に属さない映画館、劇場、ホール、公会堂などで公開。東京では封切館として日生劇場を予約してあった。

四、出演者は、五社協定に縛られない俳優、ないしは五社の専属契約を破棄した俳優とする(本数契約あるいはフリーの俳優、新劇・歌舞伎の俳優など)。伊藤雄之助、小沢昭一、石坂浩二、加賀まりこ、中村勘三郎、中村賀津雄は、すでに出演を承諾。劇団「四季」(浅利慶大主宰)、俳協(俳優生活協同組合)、創造社(大島渚主宰)、俳優小劇場、東映俳優労働組合(東映京都撮影所の大部屋俳優から成り、委員長宮崎博)のユニット出演を認める。

五、ヒロイン「あやめ」役は、第一候補=山本富士子、第二候補=吉永小百合、両者に断わられた場合は、加賀まりこ、とする。当初、岸惠子が第一候補だったが、フランスからの里帰りのスケジュールがなく、断念。

六、脚本は八尋不二の第一稿をもとに、伊藤大輔監督が手を入れる。

七、演出は加藤泰が共同であたる。

八、ジェネラル・プロデューサーに超大物を起用し、竹中労は宣伝・上映担当を受け持ち、「日本映画復興協会」の専務取締役に就任する。超大物というのは、竹中の腹案では、元・日活専務・江守清樹郎のことで、この場では発表しなかったという。

九、歴史家の林屋辰三郎氏を史料担当スタッフとして依嘱する。

十、音楽担当は外山雄三氏(京都市交響楽団の常任指揮者)、編曲担当は山屋清氏に依頼する。

十一、顧問を滝沢一、瓜生忠夫氏、南部僑一郎氏に依頼する。

錦之助を語る――(その一)山根伸介

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 『祇園祭』ノートだけでは詰まらないと思うので、今日から合間合間に、錦之助について、いろいろな人が語る錦之助論や錦之助の思い出をピックアップして、連載したい。
 小生も長年錦之助を追いかけ、たくさんの本や雑誌を収集してきたので、紹介する材料には困らない。
 で、第一回は、チャンバラ・トリオの山根伸介(1937~2015)の『私を斬った100人』(昭和56年、レオ企画)から。



 チャンバラ・トリオと言えば、60年代後半から70年代前半までの10年間が人気絶頂期だったと思う。当時はトリオでなく4人組だった。リーダーが山根で、頭(カシラ)の南方英二がハリ扇を持ち、ボケの伊吹太郎が叩かれ役、それに太った結城哲也がいた。


左から、南方、結城、山根、伊吹

 みんな東映出身で、南方、伊吹、山根の三人は東映「剣会(つるぎかい)」のメンバーだった。殺陣のシーンでの斬られ役である。昭和30年代の東映時代劇の画面にいちばん顔を出していたのは南方英二だった。彼は楠本健二(『笛吹童子』の斑鳩隼人役ほか)の弟。
 山根伸介は、東映時代の芸名は髙根利夫といった。彼が斬られ役をやった名場面は、『宮本武蔵 般若坂の決斗』のラスト、武蔵と浪人たちの決闘シーンである。錦之助に斬られ、胸から血を噴き出して死ぬ浪人が彼だ。身体中にホースを巻き付け、血の出る仕掛けをしていたという。



 山根は、『一乗寺の決斗』のラストシーンにも斬られ役として出演しているというが、未確認。
 伊吹太郎は、東映時代の芸名は伊吹幾太郎といったそうだが、大友柳太朗の付き人をやっていて、斬られ役としての出演は少なかったようだ。
 山根、南方、伊吹の三人が東映を退社し、チャンバラトリオを正式に結成したのは、1965年(昭和40年)。
 結城哲也は、東映入社が三人よりずっと後で、高倉健の付き人だったが、1968年に南方が病気で休養した時に代役としてチャンバラ・トリオに参加。南方復帰後も結城が居残ったため、4人組になったそうだ。

 映画『祇園祭』(1968年)のキャスティングに山根(利夫)、伊吹(幾太郎)、結城が山科の一揆の場面で出演している。南方はこの時、病気療養中だったという。



 さて、山根伸介は、「私はこの人の大ファンなので、書くことがメロメロになってしまうかも知れない」と前置きして、錦之助とのエピソードを六つほど書いている。その一つを紹介しよう。

 チャンバラトリオを結成して三年目、京都南座の松竹名人会に出演したときのこと――。
 だしものは、ご存知長谷川伸の名作『瞼の母』を、珍版としてネタにしていた。
 ある日、楽屋に、大きな舟型のうつわに盛りこんだ豪華な寿司、二十人前ほどが届けられた。
「誰や、こんな豪華なことしてくるの」
 見ると、“チャンバラトリオさんへ 陣中御見舞 中村錦之助”とあるではないか。
 一同、肩を叩き合った。東映を退社するとき挨拶にうかがうと、
「よく決心したなあ。しっかりやれよ」
 と励ましてくれ、門出の祝だと、楽屋のれんを贈ってくれた若旦那だったが、三年経った今また……!
 私たちはカンゲキして舞台をつとめた。
「若旦那、きっとどこかでみたはるぞ」
 その日はおかげで、客席は大爆笑の渦だったが、終わってエレベーターをおりたとたん、
「イヨッ、おめでとう」
 思った通り、現れたのだ。
「あ、若旦那、どうもありがとうございました」
「がんばってるなあ、面白かったよ」
「ありがとうございます」
「ところでな……三公」
 三公とは、南方英二のニックネームだった。
「あそこは、醒が井から南へ番場……じゃないよ。南へ一里磨針峠の山の宿場で番場……だよ。いくらお笑いでも、定まった名セリフはきちっと言わなきゃ、お客に失礼だよ」
「は、はい……」
 さすがは若旦那、こういうときでも芝居には厳しく、アドバイスしてくれるのだった。
 その後、楽屋で、ほかの出演者たちに向かい、若旦那は頭をさげられたものだ。
「みなさん、チャンバラトリオをよろしくお願いします」
 私は、グッと熱いものがこみあげてきて、たまらなかったことを覚えている。


ラピュタで『花と龍』を見る

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 2日間、ラピュタ阿佐ヶ谷へ行った。きのうの『武士道残酷物語』は15名ほどの入りだったが、『花と龍』はほぼ満員で、50名近く入っていた。今回のラピュタの特集は佐久間良子がメインだったこともあり、彼女を見に来たお客さんが多かったのだと思う。それに、土曜日だったせいもあるだろう。
『花と龍』は私の好きな映画なので、きょうは楽しむことができた。
 錦之助と佐久間良子の共演は、『独眼竜政宗』以来、6年ぶり。その間、佐久間さんは東映の看板女優にのし上がった。個人的には『独眼竜~』の頃のういういしい彼女が好きなのだが、『花と龍』のおマンさんも大変良い。色気が匂おい、女の貫禄みたいなものも出ている。
 錦之助は東映時代、佐久間良子と3本、三田佳子とは4本の映画で共演しているが、どちらとも息が合っていたと思う。佐久間さんも三田さんも錦之助を敬慕し、錦之助も二人を可愛がっていたからなのだろう。
『花と龍』(昭和40年11月公開)は、時代劇から近現代の任侠やくざ映画路線に転換した東映京都に対して、錦之助をリーダーとする体制内反対派の作った映画でもある。内容的にもやくざ否定、暴力否定を標榜している。
 錦之助が東映京都俳優クラブ組合の委員長を務めて、東映本社と闘ったのはこの年の5月から夏までであるが、秋にクランクインした『花と龍』には組合の面々が揃って出演している。神木真寿雄、尾形伸之介、加藤浩など。三島ゆり子も組合員だったと本人からお聞きしたことがある。当時東映には大部屋俳優から成る東映俳優労働組合もあって、こちらは4年前から東映本社と闘争中だったが、『花と龍』にはこちらの組合員もゴンゾウ役なので数多く出演していたようだ。
 監督の山下耕作は、この頃までは不遇をかこっていて、体制内反対派の一人だったが、『兄弟仁義』から任侠やくざ映画を撮って、傑作『博奕打ち 総長賭博』を作り、東映の屋台骨を背負うヒットメーカーになった。



映画『祇園祭』ノート(4)

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 1967年7月から10月までを、映画『祇園祭』の第一次製作準備段階としておく。
 製作が本格的に軌道に乗ったそのスタートは、7月18日。京都府庁知事室で、蜷川知事、山田副知事が、錦之助、伊藤大輔、竹中労と初めて会見し、蜷川知事が「京都府政百年」記念事業の一環として映画『祇園祭』の製作を全面的に支援することを確約した時である。この時、蜷川知事は京都府が1億円を補助すると提案したが、竹中はそれを断り、あくまでも京都府からの資金融資(返済する借入金)で良いと主張したという。京都府のPR映画を作るのではなく、スポンサーに拘束されない自主製作映画にこだわったわけだ。

 8月19日、京都府大グラウンドの盆踊り大会で、挨拶に立った蜷川知事が映画『祇園祭』の製作を発表。錦之助も挨拶。(当ブログの『祇園祭』ノート第2回参照)
 8月20日 スタッフ全体会議。(当ブログ第3回参照)
 8月21日 京都府庁で製作発表記者会見。錦之助、伊藤、竹中が出席。三人は東京へ移動し、午後、帝国ホテルで記者会見。出席者に映画評論家の南部僑一郎が合流。(当ブログ第1回参照)


帝国ホテルでの記者会見。左から、錦之助、伊藤大輔、南部僑一郎

 8月31日 竹中が『祇園祭』のジェネラル・プロデューサーとして当てにしていた元日活専務・江守清樹郎と会見。就任を懇請するも、「キミじゃなくちゃ、この映画はできないよ。志を立てた以上、キミ自身がやりぬくべきだ。人にまかせることじゃあるまい」と言われ、断られる。その代りに江守から、アシスタント・プロデューサーとして久保圭之介を紹介される。
 *この久保というのが問題の人物で、彼に協力を依頼したことが、竹中の大きな誤算だった。久保圭之介については回を改めて後述する。

 8月初めに脚本を依頼した鈴木尚之が辞退したため(鈴木は結局、翌年5月には清水邦夫との共同執筆ということで承諾し、脚本を書く)、伊藤大輔の希望により、八尋不二が脚本を書くことになる。しかし、伊藤の意向も加え原作を改変して脚色した初稿は、原作者の西口克己が気に入らず、八尋が9月半ばに書き上げた第二稿(八尋のオリジナル脚本に近かったという)は、伊藤大輔の意に添わず、ボツになる。それで、八尋は脚本担当を降りた(「キネ旬」1969年3月下旬号に八尋不二の文章がある)。その後、脚本は加藤泰(共同執筆者がほか2名いたというが、誰だか不明)が書くことになったが、加藤の脚本も決定稿に至らず(「キネ旬」の伊藤大輔「祇園祭始末」)。

 10月半ばには、竹中労が、『祇園祭』の製作をめぐり、日本共産党京都府委員会と対立し、京都府議会(および市議会)の共産党有力議員たち(X氏、西口克己ほか)の圧力で、製作から排除される。竹中は共産党も除名された。

 これで『祇園祭』の製作は、いったん座礁に乗り上げ、中断されたのである。
11月のクランクを予定して、多分錦之助が声をかけたことで出演に快諾した俳優たちもキャンセルされる事態になった。製作発表時に名前が挙げられた面々(新聞にも書かれた)、伊藤雄之助、小沢昭一、石坂浩二、加賀まりこ、中村勘三郎、中村賀津雄のうち、一年後に製作された映画に出演したのは、伊藤雄之助と賀津雄の二人にすぎない。
 しかし、周知の通り、最終的には、映画『祇園祭』のキャスティングは錚々たる男優・女優が並んで、映画が大ヒットする大きな要因の一つになる。

映画『祇園祭』ノート(5)

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 竹中労の降板後、京都府議会の可決を得て、京都府から「日本映画復興協会」へ製作費として5千万円が二度、計1億円が貸与されることになった。5千万円の貸付の時期ないし契約内容は不明であるが、67年10月までに一回目の貸付があり、68年夏までに二回目の貸付があったのではないかと思われる。
 『祇園祭』の実際の製作費は約3億円と言われているが、京都府から1億円借り入れたとしても2億円不足している。当初の見積りでは、前売り券(300円)を最低でも50万枚売って、1億5千万円を調達し、借り入れた製作費の返済にあてる予定(竹中労の成算)だった。100万枚売れば3億であるが、そんなに売れたとも思えない。翌年秋、前売り券は350円に値上げしたが、目標の50万枚売れたかどうかは不明。
 68年夏、映画がクランクインしてから、京都市民のカンパもあったと言われているが、現在のクラウド・ファンディングのような方式をとったのだろうか。カンパ資金を集めた団体は、映画のパンフレットに書かれている「映画『祇園祭』製作上映協力会」(会長:湯浅佑一)のようだが、具体的に何をしたのかは不明である。
 また、蜷川知事は完成したフィルムを京都府が買い取ってもよいと言っていたようだが、上映権つきで現像したポジ・フィルムを買うつもりが、結局、著作権ごと映画を買い取ることになった。金額は分からない。それで、現在でも京都府が映画『祇園祭』の著作権を所持しているわけだ。本当なら「日本映画復興協会」(株式会社だったようだ)が映画の著作権を所持するはずだった。
 日本映画復興協会は、『祇園祭』の後も1年に1本は映画を製作する意図を持って設立されたのだが、『祇園祭』だけを製作して、あえなく解散した。会社役員の竹中労が退任し、続いて伊藤大輔が辞めることになっては、会社の存続そのものが無意味になったのだろう。当協会の代表取締役は錦之助(本名小川衿一郎、姓名判断によって錦一から改名していた)で、ほかに役員には兄の小川三喜雄と映画評論家の南部僑一郎がいたようだが、会社解散前後の経営事情についてはまったく分からない。

京都で映画『祇園祭』のシンポジウムに出席する

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 土・日に京都へ行き、京都大学の人文科学研究所で催されたシンポジウム「映画『祇園祭』と京都」に出席してきた。京都へ行くのは8年ぶり、京大の中に入るのは48年ぶりで、大学受験して落ちて以来だ。今回は、主宰者の谷川建司さんに招かれたこともあり、また、研究発表する一人が知人の板倉史明さんであるし、それに錦之助映画ファンの会の高橋さんと野村さんも出席するというので、遠征した次第。
 行きの新幹線の中で『祇園祭』のシナリオ(鈴木尚之・清水邦夫)を再読。読みながら詰まらないホンだなと思う。主人公の新吉(錦之助)とヒロインのあやめ(岩下志麻)という人間が描けていないし、ドラマもない。ちょうど読み終わったら昼過ぎに京都駅着。バスで百万遍まで行き、京都大学へ直行。
 1日目は、時計台記念館のホールで、午後1時半から映画『祇園祭』の上映。入場無料、観客は100人ほどだった。最初に谷川さんの挨拶と解説。『祇園祭』が製作公開されたのは1968年なので、今年が50周年。それを記念しての企画だとのこと。
 『祇園祭』を見るのは、今度が5度目。高1の時、渋谷パンテオンの封切りで見て、失望した映画だ。その後何度見ても、2時間48分という長さにうんざりし、ラストも感動しない。壮大な失敗作であると私は思っている。しかし、今回はなぜか退屈しないで見ることができた。前もっていろいろな資料を調べたり、シナリオも読んで、疑問点を確認しながら見たからだろう。山内鉄也監督はシナリオに忠実に映画を撮っていたのが分かり、あのシナリオを改変せずに(脚本家の強い要請)、これ以上の映画は望めない、と納得。多少、セリフは変えていたが、許される範囲だろう。
 夕方、木屋町の小料理屋「月村」へ10年ぶりに行った。前にも女将と板前のご主人から昔話を聞いたことがあるが、また聞くことができた。女将のおばあさんが戦後間もなく開店した小料理屋で、東映(東横)のスタッフや俳優がよく来た店。マキノ光雄や月形龍之介がひいきにし、錦之助も時々立ち寄ったという。カウンター横の棚に昭和30年ごろの古い記念写真が何枚か飾ってあり、右太衛門や長谷川一夫の写真もあった。ビールを飲み、鶏釜めしを食べる。薄味でうまかった。



 夜は、鴨川べりの閑静な旅館に宿泊。石長松菊園という。どう読むのか未だに不明。客室は8畳の日本間で、朝食付きで1万5700円(一休.comで予約したので割引価格)。宿に着くとすぐに就寝したが、ビジネス・ホテルの狭い部屋より快適。

 日曜の朝、旅館を出ると、すぐ近くに金光教の河原町教会があったので驚く。金光教信者だった錦之助のお導きなのかと一瞬不思議な思いにとらわれる。新しくて立派な建物だ。日曜の礼拝があるようだが、まだ8時半で中には入れず、入口にあるガラスケースの掲示を読む。「人は生きているのではなく、生かされている云々」なるほど。
 バスで百万遍まで行く。時間があったので知恩寺を訪ねる。浄土宗の寺で、門前の立て札に、ナントカ上人が災厄を除くため百万遍の念仏を唱えたので、後醍醐天皇から「百万遍」の寺号を賜ったと書いてある。境内を一回りし、本殿に入り、本尊を拝む。
寺を出ると、道路でばったり、錦之助映画ファンの会の副会長の高橋かおるさんに会う。彼女は昨晩東京を出て岐阜羽島に泊まり、京都へ来たという。高橋さんはコテコテの錦ちゃんファンで、錦之助については生き字引である。
 京大の裏門から入り、人文研(人文科学研究所)4階の大会議室へ行く。参加者は50名ほど。午前10時から夕方まで、丸一日で大変だ。午前中に2名、昼休み休憩後、山内監督の作った京都映画祭用の短編映画の上映、そのあと3名の発表。休憩後パネルディスカッションという段取りだ。
 研究者たちの発表では、午前中の木村智哉さん(映画産業史が専門で、錦之助ファンらしく、私の本も読んでいるとのこと)の話を面白く聴いた。板倉さんの話はテーマがありきたりで、突っ込みが足らず。
 昼は錦之助映画ファンの会の高橋さんと野村美和さん(京都在住)と外へ出て、喫茶店でランチを食べ、歓談。
 午後の部では太田米男さん(大阪芸大教授で『祇園祭』のフィルムを復元した人)の話がためになった。あとのお二人(日本史研究者)の発表はテーマをもっと絞るべきで、話が散漫になってこの映画自体についても時代劇映画についても理解が不十分なように感じた。
ディスカッションの時、反論しようかとも思ったが、やめる。その代り、休み時間に京樂真帆子さん(中世史研究者)には直接、指摘しておいた。
 人文研所長の高木博志さんの発表は、『祇園祭』とはあまり関係のない当時の京都の歴史学者たちについての話だった。彼は、親切にも私を館外の喫煙所まで案内してくれ、その時、20分くらい雑談した。近代史が専門で、金光教と遊郭の関係を調べているとのこと。また金光教が登場したので驚く。さっき、河原町教会があったので、見てきたと言ったら、彼も驚く。錦之助と金光教のことで私の知っていることも話しておいた。彼とはいろいろ意見交換ができて良かった。
 木下千花(溝口健二の研究者)さんの司会でディスカッション(?)というか参加者の意見も交えた質疑応答があり、終わったのは日も暮れた6時すぎ。
 それから、烏丸通りの居酒屋で関係者による打ち上げの会があり、谷川さんに誘われて私も参加。8時半まで居て途中で退席。京都を出発したのは夜の9時。杉並の自宅へ帰ったのは12時過ぎだった。へとへとになった。

映画『祇園祭』ノート(6)

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 先日、京都で『祇園祭』のシンポジウムに出席し、研究者たちの発表を聴いて、初めて情報を得たことがいくつかある。

一、京都府から『祇園祭』の製作費の融資をしたのは、1967年ではなく、68年で、金額は5000万円。当時の京都府議会の議事録に記載されているそうだ。京都銀行が京都府へ5000万円を入れ、その金を日本映画復興協会へ回したらしい。しかし、京都府からその後の融資が行われたかどうか、また、あったとしたら金額はいくらなのか(再度5000万円だったのか)? その点については未調査で不明のようだ。

二、京都市民(府民)に売った前売り券(350円)とは別に、1000円券というのもあったという。これは、無料試写会付きで、広く市民に資金援助を求めたものだが、売った団体や売れた枚数は不明。

三、京都文博に所蔵されている伊藤大輔文庫(夫人から寄贈)に、『祇園祭』の未定稿が数冊残っていること。発表者の京樂真帆子さんが脚本家の八尋不二(伊藤大輔と連名)が書いた二冊の脚本に目を通したという(京樂さんは、一冊目を「山鉾本」、二冊目を「未定稿本」と名付けていた)。山鉾本は原作をずいぶん変えたものだが、山鉾本の方が史実に添っていて、これを映画化した方が良かったのではないかという感想を述べていた。また、加藤泰の書いた脚本も残っているらしい。

四、史実では、祇園祭の復興を阻止したのは、足利幕府ではなく(幕府は復興に積極的だった)、延暦寺の大衆(だいしゅ、仏僧の集団)だったが、実際に作られた映画では、延暦寺の「山法師」「僧兵」という用語(鈴木・清水脚本にも出てくる)が全部削除され、足利幕府だけが阻止勢力になっていたという。
 この史実を曲げた描き方は、明らかに原作者はじめ京都府議会の日本共産党の政治的意図によるものだった(京樂さんははっきりと言わなかった)。つまり、政治権力を有する支配者階級を武士(侍)による足利政権に限定し、武士階級が民衆(町衆、農民、下層民)を搾取・抑圧し、民衆は武士に対抗し、自治体制を確立するといった構図を明確にしたかったのだと言える。

長門裕之は語る。

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 部屋の片づけをしていたら、段ボール箱の中から、映画館のチラシやパンフがごっそり出てきた。その中に、以前無料で配布していた「東映キネマ旬報」が数種類あって、高倉健が表紙の2010年夏号が目に留まった。特集「日本侠客伝」とあって、長門裕之のインタビューが載っている。
 あれっ、読んだ記憶がない。そういえば長門裕之は叔父のマキノ雅弘監督の「日本侠客伝」シリーズにはいつも出演していたなあと思い当たる。



 片付けの手を休めて、早速読んでみると、面白いことが書いてある。撮影現場でのマキノ監督の演出法をいろいろ語っているのだが、特に中村錦之助、高倉健という二人の俳優が、マキノ演出にどう対応していたかについて、そばで観察していた長門が率直に感想を述べているのだ。
 長門は錦兄ィ(錦之助)に敬服していたらしく、こんなことを書いている。
「(マキノ監督と)錦兄ィとのやり取りは面白かったですね。錦兄ィは自分が持っている芝居の資質みたいなものを、いくらマキノさんに演出されても完全には同化させない。妥協しないで自分の芝居を出しながら、ちょっとだけマキノ節をからめて見せる。その技術が凄くて、器用な人なんです。」
 長門裕之が錦之助と共演したのは、映画では『日本侠客伝』第一作だけであるが、ズタズタに斬られた長門が錦之助の腕の中で死ぬ名場面があった。あの時の二人は息があっていたなあ。
「高倉健さんは、どちらかと言えば不器用な方ですから、マキノさんに言われた通りにやる。ただ『このセリフは違いますね』と、譲らない部分は決して譲らない人です。」
 さらに長門は、「鶴田浩二さんもマキノさんに対しては従順でしたね。そういう高倉さんや鶴田さんの、いい意味で一貫した個性を、マキノさんは上手いこと使って、いい部分を引き出した。それが演じたキャラクターの魅力にもなっていったと思うんです」と語っている。つまり、健さんも鶴田もマキノ監督がその個性を引き出し、任侠映画の主役に定着させたというのが長門の見方のようだ。
 ただし、「健さんはマキノさんが作る任侠の世界に最後まで馴染んでいなかった気もしますね」と言い、「要求されるものに応えようとやっていたけれども、どこかに抵抗感があった。だからその後は東映を離れて、まったく違ったタイプの役柄に挑戦したんでしょう」と語る。
 確かに、高倉健は、侠客やヤクザを演じ続けることに嫌気がさしていたんだろうなあと思う。「日本侠客伝」で最初の数作は、主役の健さんは堅気の役だったのだが、いつの間にか侠客(男気のあるヤクザ)にされてしまった。

 ところで、『日本侠客伝』第1作でヤクザの役をやったのは錦之助で、これが素晴らしかった。周知のように、『日本侠客伝』は当初錦之助の主演作であった。それが、運悪く田坂具隆監督の『鮫』の撮影が長引いて、『日本侠客伝』のスケジュールが立たなくなってしまった。そのため、主役を高倉健に譲り、錦之助は特別出演の形で、脇役に回ったのだった。その辺の事情は別の機会に書きたいと思う。



脇坂淡路守

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 錦之助の脇坂淡路守を久しぶりに見たくなって、オールスター映画『赤穂浪士』を見た。この『赤穂浪士』、大佛次郎原作のものとして二度目の映画化であるが、前の『赤穂浪士』に比べると、出来が悪い。
まあ、錦之助の登場シーンだけ見れば良いと思って、あとの部分は適当に見た。
 錦之助の出番は前半に2場面、後半の初めに1場面ある。脇坂にしては、普通よりずっと多い。錦之助が当時東映のトップスターだった証しであろう。

 最初は、脇坂が浅野内匠頭の江戸屋敷を訪ねて、内匠頭を励ます場面。錦之助が橋蔵と同じ場面で台詞(せりふ)を交わして共演するのは、確か数年ぶりだったと思う。『七つの誓い』以来であろう。
 錦之助と橋蔵が対座するところから始まるが、ここは錦之助が一方的に話し、橋蔵は聞き役にすぎない。むしろ、北の方(内匠頭の妻)の大川恵子と錦之助のやり取りが楽しい。病気で床にいた北の方が着飾って出て来て、淡路守様の声が大きくて、寝てもいられないと言うと、錦之助は、「とんでもない言いがかりをつけられてしまった」と言って、高笑いする。この豪快な笑い方がいい。錦之助の持論、笑いも台詞である。



 そのあと、錦之助は食事に魚を出された殿様の話をするのだが、これは落語のネタ。三遊亭金馬(出っ歯の三代目)がこの話を「目黒のサンマ」のまくらに使っているが、昔からある有名な小噺らしい。
 殿様がおかしら付きの魚に箸を付け、一口食べたあと、代わりを持てと言う。あいにく同じ魚がなく、困った家臣が、庭に咲いた桜の方に殿様の視線を向けさせている間に、お膳の魚をひっくり返す。また一口食べた殿様が、さらに代わりを持てと言う。困り果てた家臣を見て、殿様が「もう一度、庭の桜を見ようか?」
 錦之助は、大の落語好きで、座興で持ちネタを一席演じることも度々あったと聞く。淡路守が殿様と魚の話をする部分は、脚本にあったのだろうか。この場面の演出は、私の推測では、松田定次ではなく、共同監督のマキノ雅弘だったと思う。クレジット・タイトルにマキノの名前はないが、この映画の半分近くはマキノが撮ったそうだ。してみると、この場面はマキノと錦之助の二人で即興的に作り変えた可能性が高い。
 それはともかく、そのあと赤穂から鯛の浜焼きが届いたという知らせがあり、立ち上がった内匠頭が襖の向こうに並んだ鯛の前で、釣った家来の名札を見ながら感動することになるのだが、この時の橋蔵の一人芝居が下手で、ここを見るといつもげんなりしてしまう。
 最後に大川恵子がどの鯛が食べたいかと錦之助に訊かれて、お殿様が桜を見ている間に出された鯛と言って、また錦之助が高笑い。「すっかり当てられてしまった」と言う。
 帰り際、玄関の前で駕籠に乗った脇坂は、見送りに控えていた片岡源吾衛門(山形勲)に吉良上野介に送った品を問いただし、家来の本分を説く。
 
 そして、いよいよ殿中松の廊下の場面。
 やはり、脇坂淡路守と言えば、見せ場は、内匠頭が刃傷に及んだ直後、避難する吉良の前に現れて、すれ違いざま、紋付を血で汚したと怒って、吉良の頭を扇子(中啓)で打ちつけるところだ。ここは、松の廊下の刃傷の場面の締めとして欠かせぬ箇所で、観客は、憎き吉良に対するこの脇坂の行為を見て、留飲を下げるわけだ。したがって、脇坂の役は小物俳優では務まらない。威厳と風格がなければならない。錦之助の脇坂は、戦後の「忠臣蔵」映画ではおそらく一番若かったと思うが、28歳にしてこの威厳と風格、さすがである。
「おのれ~、この脇坂の定紋を不浄の血でけがすとは!! 慮外者めッ」
 と言うやいなや、吉良上野介の頭と胸を打ち付けた時の迫力がすごい。月形龍之介の上野介も「平に~」と許しを請うて、たじたじだった。

 後半は、赤穂城の明け渡しの場面で、錦之助の脇坂が白馬に乗って、颯爽と現れるが、馬上の姿が実に様になっている。
 そして、城内の内匠頭の居室で、千恵蔵の大石と対面する場面。千恵蔵が受けの芝居に徹し、錦之助の演技を引き立てる。それに応え、錦之助が思う存分、芝居をしていた。

*下にアップした役者絵、錦之助の特徴をよくつかんでいる。ただし、萬屋錦之介とあるのはいただけない。





キネ旬の映画評『冷飯とおさんとちゃん』

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 古いキネマ旬報を数冊購入して、ページをめくっていたら、昭和40年5月下旬号に『冷飯とおさんとちゃん』の映画評があった。映画評論家の大黒東洋士(おおぐろとよし)が書いたもので、とくに第一話『冷飯』を手放しで絶賛していて、わが意を得たりという気持ちになった。



 大黒は、『冷飯』について、まず「底抜けに明るい描き方で、思わずオヤッとなるくらい珍重すべき風味」があり、従来の時代喜劇とは「まるで違った新しい内容と語り口である」と指摘し、「時代劇の今後のあり方に示唆するところまことに大」であり、「『冷飯』の持つ意義は大きい」と書いている。そして、詳述できないのが残念であると断った上で、具体的には次のような点をあげている。

――四男大四郎が自分の恋を屈託なく母に打ち明ける挿話など、かつて時代劇になかった微笑ましい明るさである。冷飯の先輩の叔父貴と大四郎との冷飯談義もおもしろい。母を中心にむつみ合う兄弟四人の心暖まる快さ、初めて料亭に上った大四郎の言動のおかしさ愉快さ、その様子に隣室の中老が思わず吹き出し、そして大四郎の人柄に惚れるが、この辺の演出のうまさは絶妙である。



 第二話『おさん』は、「むずかしい題材でうまくこなされていない」「説明的なナレーションを多用」しすぎて「もどかしい」などと苦言を呈しながらも、「死んでいった女の業の悲しみには、ついホロッとさせられるものがある」と書いている。

 第三話『ちゃん』は、古くさい人情話ではあるが、「夫婦、親子のこまやかで素朴な愛情が笑わせ、そして泣かせる」と言い、「心暖まる心憎い一編である」と褒めている。

 そして、最後に出演者について触れ、こう書いている。
 
――中村錦之助の一人三役が見事である。一話の小沢昭一、二話の新珠三千代、三話の女房役森光子、長男役伊藤敏孝の好演を買う。おさん役の三田佳子は難役だけにムリだった。




*大黒東洋士(1908~1992)
 高知県出身。早稲田大学中退。昭和3年松竹蒲田撮影所脚本研究所の第一期生として池田忠雄、柳井隆雄らとシナリオを学ぶ。のち「映画時代」編集を経て、「映画之友」編集長となる。戦後、「映画世界」編集長をつとめ、昭和25年よりフリーになり、新聞、雑誌に数多くの映画評を書く。錦之助を高く評価した映画評論家の一人である。


『冷飯とおさんとちゃん』――錦之助の談話

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 「東映の友」(1965年5月号)に新作『冷飯とおさんとちゃん』について、錦之助の談話が載っている。5月号は4月5日発行なので、この談話はクランク中の、おそらく3月に取材されたものだと思う。この頃はまだ、東映内での錦之助の立場も揺らいでいなかったし、時代劇に対しても錦之助は希望を持って取り組んでいたようだ。話の内容から、この作品にかける錦之助の意気込みが感じられる。また、役者としての自信も伝わってくる。
 
 聞き手から、この作品で一番表現したいと考えている点は何かと訊かれ、錦之助はこう答えている。
「まったく違った三つの話なんですが、あるものから疎外された人間にスポットがあてられてるんです。第一話『ひやめし物語』では、権力社会、家族構成から疎外され、第二話『おさん』では特異な性癖をもつ女房から逃げ出す。ラストの『ちゃん』では企業という時代の流れから取り残された職人なんです。この三人の話を通じて、人間本来の素朴さ、誠実さ、人情の機微といったものが感じてもらえればと思っています」
 錦之助が「疎外」という言葉を遣っているところが面白い。確かに第一話と第三話の主人公は、社会から疎外された人間であった。第二話の主人公は、愛する妻からの疎外者だと言えないこともないが、女性不信に陥った男と言った方が適切だろう。



 山本周五郎の文学についてどう思うかという質問に対しては、こう答えている。
「周五郎先生独特のペーソスが、作品の隅々まで行き届いていて素晴らしいですね。『ちいさこべ』もそうでしたが、今度の場合もとても魅力を感じます。何だかジーンとしてきて、心の隅々まで洗い流されるような気がします」

 監督の田坂具隆は、錦之助が師と仰いで敬愛する存在だった。『親鸞』の撮影現場で田坂監督から指導を受け、錦之助は迷いが吹っ切れて、演技に集中できたという。『鮫』の時も同じだった。
「スラスラと役の中に入っていけるんですね。口ではうまく表現できませんが、先生には、うまく演技を引き出す魔力のようなものがあるんですね。それが無条件で先生を尊敬する最大の理由なんです」

 共演女優の新珠三千代について。
「第二話の女中おふさ役には、本を読んだ時から新珠さんのイメージがありました。新珠さんからはすごく女を感じるんですが、今度のおふさという女もそんなイメージがあるんです」
 新珠三千代は東宝の専属女優(1957年に日活から移籍)だったが、田坂監督が日活で撮った『乳母車』では、石原裕次郎の姉で宇野重吉の愛人役を好演していた。東映京都での田坂監督作品に再び出演がかない、錦之助との初共演が実現した。

 森光子について。
「森さんとは舞台(歌舞伎座)で御一緒したことがあるんですが、今度は貧乏人の子沢山というか、呑んだくれの亭主と四人と子供をかかえて苦労してもらうんです。そんな役がピッタリって云ったら森さんに悪いかな」



 森光子は1964年春に芸術座公演「越前竹人形」で中村賀津雄と共演したことが縁で、同年7月、歌舞伎座での三世・四世時蔵追善興行に招かれ、「ちりめん飛脚」で賀津雄と再び共演したが、錦之助との本格的共演はこの映画が初めて。錦之助より一回り(12歳)年上で、姉さん女房といった感じだった。

ラピュタ阿佐ヶ谷での「錦之助映画祭り」

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 ラピュタ阿佐ヶ谷で支配人の石井さんと「錦之助映画祭り」の打ち合わせをしてきた。
 期間は次の「小林桂樹特集」が終わってからの8週間。3月24日(日)~5月18日(土)。
 ラピュタ方式だと、午後1時から8時半の間に4本上映して、3日ごとにプログラムを変えるので、全部で30~32作品上映できる。
 私の方から上映希望作品を19本提示。錦之助映画ファンの会の資金でニュープリントを作って、これまで池袋の新文芸坐でしか上映したことがない作品は是非やってほしいとお願いした。『ゆうれい船』前・後篇と『任侠清水港』と『江戸っ子奉行 天下を斬る男』の4本。あとの15本は、すべて錦之助の代表作を挙げておいた。『曽我兄弟 富士の夜襲』『水戸黄門』『風と女と旅鴉』『一心太助 天下の一大事』『独眼竜政宗』『弥太郎笠』『瞼の母』『反逆児』『若き日の次郎長 東海の顔役』『関の彌太ッペ』、そして『宮本武蔵』5部作。
 その他の作品は1月終わりまでに決めるが、あらかた石井さんに任せようと思っている。
 ニュープリントの候補は、『関の彌太ッペ』と『冷飯とおさんとちゃん』の2本。東映に見積りを出してもらって決定することになるだろう。
以前は90分のカラー作品だと25万円で作れたのだが、最近は高くなって、40万円くらいするようだ。東映ラボテックが自社で焼くのをやめて、イマジカか東京現像所に外注するようになったからだという。『冷飯~』は約3時間の作品なので、80万円になるかもしれない。そうなると『関の彌太ッペ』だけになる可能性が高い。
 東映企画部のOさんと先日連絡を取り、近々本社へ相談に行くことになった。10年前にお世話になった東映の幹部がみんな退職してしまい、今では二人しか知り合いがいない。東映本社には石井さんも同行するというので、二人でいろいろ掛け合うつもりだが、あまり期待できない気がしている。


ラピュタ「錦之助映画祭り」

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 きょうは、ラピュタ阿佐ヶ谷の石井さんといっしょに、銀座の東映本社へ行ってきた。今回の「錦之助映画祭り」に関し、東映営業部とコンテンツ事業部の担当者(女性二人と男性一人)と1時間ほど協議をした。
 第一は、ニュープリントの件。『関の彌太ッペ』と『冷飯とおさんとちゃん』の2本の見積りは、2月10日ごろ上がってくるとのこと。一応、東映の費用で作るつもりはないかと打診してみたが、ノーという返答なので、結局ラピュタと錦之助映画ファンの会がお金を出しあって作らざるをえまい。金額を見てから最終決定するが、あまりに高いようではラピュタも採算がとれない。そこで、フィルム・レンタル料(ニュープリントの場合は10万円)を安くするなどして、なんらかの形で値引きしてほしいと強く要望しておいた。東映側もその辺は考慮してくれるかもしれない。
 第二は、錦之助映画ファンの会の会員が持っているレアな16ミリ・フィルムを今回ラピュタで上映できないかという交渉。東映にも国立アーカイブ(旧フィルムセンター)にもフィルムがなく、映像ソフトもない錦之助出演作の秘蔵16ミリ版が2本(『お坊主天狗・総集篇』と『青雲の鬼』)あって、これまでファンの会の内輪では何度か見ている映画なのだが、一般のお客さんにも是非見せたい。もちろん、東映には上映料(ないし著作権料)を払った上での話である。この件に関しては、夕方東映営業部からラピュタに電話があり、今回は特別にオーケーとの嬉しい回答があった。ラピュタで近日中に試写してフィルム状態を確かめてから決定するが、もしこの16ミリの2本が上映できれば、今回の「錦之助映画祭り」の目玉になるかと思う。
 実は、あと1本、レアな16ミリがある。『青年安兵衛 紅だすき素浪人』で、錦ちゃんが中山安兵衛に扮した映画だ。これは名古屋の映画レンタル会社が所持していて、3度ほどファンの会で借りて見たことがある作品なのだが、前からファンの会で買い取ろうと思っているうちに、近年この会社が解散してしまった。今、東京の仲介業者に頼んで、フィルムの所在を捜索中である。しかし、ジャンクしてしまった可能性も高い。としたら、泣いても泣ききれない。もう永久に見られないだろう。
 目下、今回の特集を記念して、小冊子(「青春二十一」の特別号)を発行しようかどうか、迷っているのだが、それに使うスチール写真の使用料も東映と相談。
 帰り道、車の中で、石井さんといろいろな打ち合わせをした。上映作品は現在29本が確定。さらにあと5,6本はやりたいので、期間を1週間延長しようかという話になる。3月24日(日)から5月25日(土)までの9週間で、計36本上映することになりそうだ。上映会のタイトルは「錦之助映画祭り」、サブタイトルは「時代劇の至宝・中村錦之助=萬屋錦之介」。その他、チラシの作品解説と写真選択は私が担当。チラシとポスターの完成はちょっと遅れて、3月10日前後の予定。忙しくなってきた!

ラピュタ「錦之助映画祭り」その2

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ラピュタ阿佐ヶ谷「錦之助映画祭り」上映作品(確定分29本)を監督別に並べておきます。

佐々木康作品(3本)『曽我兄弟 富士の夜襲』『水戸黄門』『江戸っ子奉行 天下を斬る男』

松田定次作品(4本)『任侠清水港』『ゆうれい船 前篇』『ゆうれい船 後篇』『隠密七生記』

マキノ雅弘作品(4本)『おしどり駕篭』『清水港の名物男 遠州森の石松』『弥太郎笠』『若き日の次郎長 東海の顔役』

加藤泰作品(4本)『源氏九郎颯爽記 白狐二刀流』『風と女と旅鴉』『瞼の母』『沓掛時次郎 遊侠一匹』

河野寿一作品(2本)『独眼竜政宗』『浅間の暴れん坊』

沢島忠作品(4本)『一心太助 天下の一大事』『殿さま弥次喜多 怪談道中』『お役者文七捕物暦 蜘蛛の巣屋敷』『一心太助 男の中の男一匹』

内田吐夢作品(5本)『宮本武蔵』五部作

伊藤大輔作品(1本)『反逆児』

山下耕作作品(1本)『関の彌太ッペ』

五社英雄作品(1本)『丹下左膳 飛燕居合斬り』

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