盆踊り大会の翌日(8月20日)、午前10時より、映画『祇園祭』のスタッフ全体会議が京都の某神社の社務所を借りて開かれた。
主な出席者は、伊藤大輔、中村錦之助、西口克己、竹中労、八尋不二(脚本担当)、加藤泰(共同監督)、滝沢一(映画評論家)、井川徳通(美術担当)、中岡清(装飾担当)、進藤誠吾(小川企画の製作部長)、浮田洋一(実務進行担当)、宮崎博(東映俳優労働組合委員長)ほか。
『祇園祭』の製作前に監督以下のスタッフが一堂に会するのは初めてだった。そして、おそらくその後こうした会議は二度と開かれず、また翌1968年の夏前までも開かれないまま、『祇園祭』はクランクインしたようだ。また、この12名のうち、最後までスタッフを離脱することなく、クランクイン後も製作に携わったメンバーは、伊藤、錦之助、西口、井川、中岡の5名にすぎない。
この会議で確認ないし決定した事項は以下の通り(「キネ旬」1969年1月下旬号の竹中労「続まぼろしの『祇園祭』」参照)。
一、クランクインは今年(1967年)11月。撮影は元・松竹京都撮影所(同所は65年夏に閉鎖以後貸スタジオになっていた)。封切は来年4月を予定。
二、製作費は1億5千万円。1億円を京都府から借入れ、撮影に入るが、封切前までに前売券(300円)を50万枚売って、返済にあてる。
三、上映方法はフリー・ブッキング制。大手映画会社のブロック・ブッキング制に対抗し、各社の系統館に属さない映画館、劇場、ホール、公会堂などで公開。東京では封切館として日生劇場を予約してあった。
四、出演者は、五社協定に縛られない俳優、ないしは五社の専属契約を破棄した俳優とする(本数契約あるいはフリーの俳優、新劇・歌舞伎の俳優など)。伊藤雄之助、小沢昭一、石坂浩二、加賀まりこ、中村勘三郎、中村賀津雄は、すでに出演を承諾。劇団「四季」(浅利慶大主宰)、俳協(俳優生活協同組合)、創造社(大島渚主宰)、俳優小劇場、東映俳優労働組合(東映京都撮影所の大部屋俳優から成り、委員長宮崎博)のユニット出演を認める。
五、ヒロイン「あやめ」役は、第一候補=山本富士子、第二候補=吉永小百合、両者に断わられた場合は、加賀まりこ、とする。当初、岸惠子が第一候補だったが、フランスからの里帰りのスケジュールがなく、断念。
六、脚本は八尋不二の第一稿をもとに、伊藤大輔監督が手を入れる。
七、演出は加藤泰が共同であたる。
八、ジェネラル・プロデューサーに超大物を起用し、竹中労は宣伝・上映担当を受け持ち、「日本映画復興協会」の専務取締役に就任する。超大物というのは、竹中の腹案では、元・日活専務・江守清樹郎のことで、この場では発表しなかったという。
九、歴史家の林屋辰三郎氏を史料担当スタッフとして依嘱する。
十、音楽担当は外山雄三氏(京都市交響楽団の常任指揮者)、編曲担当は山屋清氏に依頼する。
十一、顧問を滝沢一、瓜生忠夫氏、南部僑一郎氏に依頼する。
主な出席者は、伊藤大輔、中村錦之助、西口克己、竹中労、八尋不二(脚本担当)、加藤泰(共同監督)、滝沢一(映画評論家)、井川徳通(美術担当)、中岡清(装飾担当)、進藤誠吾(小川企画の製作部長)、浮田洋一(実務進行担当)、宮崎博(東映俳優労働組合委員長)ほか。
『祇園祭』の製作前に監督以下のスタッフが一堂に会するのは初めてだった。そして、おそらくその後こうした会議は二度と開かれず、また翌1968年の夏前までも開かれないまま、『祇園祭』はクランクインしたようだ。また、この12名のうち、最後までスタッフを離脱することなく、クランクイン後も製作に携わったメンバーは、伊藤、錦之助、西口、井川、中岡の5名にすぎない。
この会議で確認ないし決定した事項は以下の通り(「キネ旬」1969年1月下旬号の竹中労「続まぼろしの『祇園祭』」参照)。
一、クランクインは今年(1967年)11月。撮影は元・松竹京都撮影所(同所は65年夏に閉鎖以後貸スタジオになっていた)。封切は来年4月を予定。
二、製作費は1億5千万円。1億円を京都府から借入れ、撮影に入るが、封切前までに前売券(300円)を50万枚売って、返済にあてる。
三、上映方法はフリー・ブッキング制。大手映画会社のブロック・ブッキング制に対抗し、各社の系統館に属さない映画館、劇場、ホール、公会堂などで公開。東京では封切館として日生劇場を予約してあった。
四、出演者は、五社協定に縛られない俳優、ないしは五社の専属契約を破棄した俳優とする(本数契約あるいはフリーの俳優、新劇・歌舞伎の俳優など)。伊藤雄之助、小沢昭一、石坂浩二、加賀まりこ、中村勘三郎、中村賀津雄は、すでに出演を承諾。劇団「四季」(浅利慶大主宰)、俳協(俳優生活協同組合)、創造社(大島渚主宰)、俳優小劇場、東映俳優労働組合(東映京都撮影所の大部屋俳優から成り、委員長宮崎博)のユニット出演を認める。
五、ヒロイン「あやめ」役は、第一候補=山本富士子、第二候補=吉永小百合、両者に断わられた場合は、加賀まりこ、とする。当初、岸惠子が第一候補だったが、フランスからの里帰りのスケジュールがなく、断念。
六、脚本は八尋不二の第一稿をもとに、伊藤大輔監督が手を入れる。
七、演出は加藤泰が共同であたる。
八、ジェネラル・プロデューサーに超大物を起用し、竹中労は宣伝・上映担当を受け持ち、「日本映画復興協会」の専務取締役に就任する。超大物というのは、竹中の腹案では、元・日活専務・江守清樹郎のことで、この場では発表しなかったという。
九、歴史家の林屋辰三郎氏を史料担当スタッフとして依嘱する。
十、音楽担当は外山雄三氏(京都市交響楽団の常任指揮者)、編曲担当は山屋清氏に依頼する。
十一、顧問を滝沢一、瓜生忠夫氏、南部僑一郎氏に依頼する。