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Channel: 錦之助ざんまい
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『浪花の恋の物語』(その8)

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 錦之助が沖縄公演を済ませて、東京・青山の実家へ帰って来たのは、年も押し詰まった12月29日であった。その日の夕方、錦之助は三喜雄から、内田監督が梅川役に有馬稲子を望んでいるということを聞いて、「えっ!」と大声を上げ、顔をほころばせた。錦之助自身、頭の片隅で有馬稲子の梅川を思い浮かべていたからだ。錦之助はこれまでずっと有馬との共演を望んでいた。そして、そろそろそのチャンスが巡ってくるのではないかと思っていた。最近、有馬が時代劇に出始めたこと、そして、この秋に内田吐夢監督の東映東京作品『森と湖のまつり』に有馬が出演して、東映とのつながりができたことが、錦之助に有馬との共演の予感を抱かせたのである。
 実は錦之助が有馬稲子と共演するチャンスは、これまで二度会ったが、いずれも実現しなかった。
 一度目は、錦之助初の現代劇映画『海の若人』(昭和30年)だったが、相手役の候補に上がった程度ですぐに流れてしまった。有馬は、錦之助を16歳か17歳と勘違いして、「私のほうが年上だから若いツバメみたいに見えるんじゃない」と冗談を言ったところ、それがいつのまにか「錦之助なんかと共演するのはイヤ!」ということになって報道されてしまったらしい。錦之助は京都新聞を読んで、「なんだ、同い年のくせに、お高くとまりやがって!」と思って腹を立てたが、わざわざその記事を切り抜いてスクラップブックに貼ったのだという。第一印象は悪かったが、有馬稲子という女優に錦之助が強い関心を持ったのはこの時であろう。
 二度目は、マキノ雅弘が監督し、錦之助が若きジンギスカンを演じる予定だった東映東京作品『大成吉思汗(大ジンキスカン)』である。プロデューサーのマキノ光雄が錦之助の相手役に有馬を考えて交渉し、一度はオーケーをとったのだが、これも日程の都合で流れた。映画自体も昭和32年秋、撮影開始数日で中止になり、結局製作されないまま終わってしまったのだった。

「いいねえ。有馬さんなら申し分ないよ。兄貴、有馬さんに決めてくれよ」
 気の早い錦之助に兄の三喜雄も苦笑いしながら、
「そう簡単にはいかないよ。有馬さんがやりたがるかどうかも分からないし……」
「大丈夫だよ。叔父さんのつまんない相手役より、ずっとましさ」
 錦之助の言う叔父さんの相手役というのは、木下順二の民話劇を山本薩夫監督が映画化した時代劇『赤い陣羽織』(歌舞伎座映画製作、松竹配給)に叔父の中村勘三郎が主演して、そのマドンナ役を有馬稲子がつとめたことである。『赤い陣羽織』は以前勘三郎が芝居で主役の代官を演じて好評だったため、映画でも同じ主役を演じることになったのだが、勘三郎はこれが映画初出演であった。有馬の役は水車小屋の百姓の女房で、美しい有馬に惚れた勘三郎が有馬を手籠めにしようとして失敗するといった一種の喜劇である。錦之助は、この映画の撮影後に勘三郎と会って話した時、勘三郎がしきりに有馬稲子と共演したことを自慢するので、羨ましいのを通り越して、悔しい思いを味わっていた。「ネコちゃんって、実にいい女なんだよなあ」などと、叔父が年甲斐もなく鼻の下を伸ばし、有馬稲子のことを愛称で呼ぶのを聞いて、内心「チクショー!」と思っていた。今年の9月下旬、『赤い陣羽織』が封切られると、すぐに錦之助は映画館へ見に行った。あまり笑えない映画で、芝居のほうがずっと面白かったと思った。そして、勘三郎に電話をして、手厳しい批評を浴びせて、留飲を下げたのだった。

「早く有馬さんに連絡して、訊いてみろよ」
 三喜雄は来年早々有馬とコンタクトを取って、交渉してみようかと思っていると言うと、せっかちな錦之助は手帖を取り出し、ぺらぺらめくりながら、
「善は急げだよ。あった、あった、電話番号」と言って、にっこり笑った。
 まだ心の準備ができていない三喜雄はあわてて、
「おい、今すぐ電話するのか。仕事納めで、もう有馬さんの事務所、やってないよ」
「いや、これ自宅の電話番号なんだよ。有馬さん、いるかもしれないよ」
「えっ、おまえ、なんで番号、知ってるんだよ」
「前に有馬さんと雑誌で対談したことがあったじゃないか」
「ああ、ずいぶん前だったな」
「そのあと有馬さんの家へ行ってご馳走になってさ。その時、また会いましょうって教えてくれたんだよ。結局、それっきりになっちゃったんだけど……」
(つづく)




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