『任侠清水港』を撮り終わった後、監督の松田定次は、錦之助について、「近代映画」誌のインタビューにこう語った。(「近代映画」昭和32年2月号所載「ごひいきスター読本 中村錦之助」)
――やっていることが実にしっかりとしていて、ものおじしない割り切った演技です。充分に自分を出しきれないで芝居をしている人がいますが、彼の場合、良かれ悪しかれ、自分の持っているものを充分に出し切って芝居していますね。この点に惹かれるんじゃないでしょうか。いわゆる体当り的演技にね。それと、熱心さと負けん気が目立ちますね。とことんまでやりぬく熱意と誰にも負けんぞーというガンバリの精神が……。若手のスターの中でもずばぬけた存在で将来の大スターとして太鼓判を押していいと思います。
年が明けて、昭和32年の正月。3日からオールスター映画『任侠清水港』は全国の東映系映画館で封切られた。併映は娯楽版中篇の『新諸国物語 七つの誓い(第二部)奴隷船の巻』であった。邦画界初のカラー映画の新作二本立てで、しかも、日本人が好む次郎長物と、子供たちに人気のある「新諸国物語」シリーズの一篇である。
初日の3日は朝から東映の映画館へ客が詰めかけ、満員御礼となった。
浅草東映は昨年10月半ばに新築完成し、開館してわずか2か月余りの東映直営館であったが、1800名入る館内が一回目の上映から満席となり、立ち見客でドアが閉まらないほどの大入りになった。この二本立て上映は8日までだったが、連日満員が続き、浅草東映の6日間の観客総動員数は47,249名に上り、収容率は200パーセントに達した。同館では、休日にあふれた客を何回か地下の東映パラス劇場(定員900名)へ移し、同じ映画を上映して急場をしのいだ。収容率というのは、入場者数を定員×上映回数で割った百分率であるが、200パーセントという数字は、データにその観客数を加え、地下の劇場の定員数を無視して、計算したのであろう。
新宿東映(旧館で定員1430名)も記録的な大入りだった。同期間の観客動員数は38,780名、収容率はなんと222パーセントであった。ここでも、浅草東映同様、あふれた客を地下劇場へ回したのであろう。
東京の東映直営館はほかに渋谷、銀座、五反田にあったが、正月の6日間に東京だけで15万以上の人たちが『任侠清水港』を見たことになった。
大阪東映の同期間の観客動員数は、36,289名、福岡東映が29,334名であった。
東映の資料によると、昭和31年末の東映直営館は32館だった。東京、大阪、福岡以外に、札幌、弘前、盛岡、仙台、新潟、富山、横浜、小田原、名古屋、京都大宮、伊賀上野、広島にあった。直営館ではないが、東映作品だけを上映する専門館が全国に673館あり、こうした東映系列の配給網が東映という映画会社を支えていた。ほかに契約館(東映作品だけでなく他社の映画も上映する映画館)が2000館近くあり、東映作品はまさに全国津々浦々で上映されるようになっていた。
昭和29年2月(『笛吹童子』が製作される前)には、直営館5館(東京に4館、横浜に1館)、専門館95館、契約館1536館であったことを見れば、昭和29年下半期から31年までの2年半に東映がいかに驚異的な成長を遂げたかが分かるであろう。
昭和32年の正月は、『任侠清水港』の大当たりによって東映も東映傘下の映画館も大きな収益を上げ、幸先の良いスタートであった。『任侠清水港』の総配給収入は2億円を超えた。前年のオールスター映画『赤穂浪士』の2億6千976万円の記録を破るまでにはいかなかったが、爆発的な大ヒットであった。
――やっていることが実にしっかりとしていて、ものおじしない割り切った演技です。充分に自分を出しきれないで芝居をしている人がいますが、彼の場合、良かれ悪しかれ、自分の持っているものを充分に出し切って芝居していますね。この点に惹かれるんじゃないでしょうか。いわゆる体当り的演技にね。それと、熱心さと負けん気が目立ちますね。とことんまでやりぬく熱意と誰にも負けんぞーというガンバリの精神が……。若手のスターの中でもずばぬけた存在で将来の大スターとして太鼓判を押していいと思います。
年が明けて、昭和32年の正月。3日からオールスター映画『任侠清水港』は全国の東映系映画館で封切られた。併映は娯楽版中篇の『新諸国物語 七つの誓い(第二部)奴隷船の巻』であった。邦画界初のカラー映画の新作二本立てで、しかも、日本人が好む次郎長物と、子供たちに人気のある「新諸国物語」シリーズの一篇である。
初日の3日は朝から東映の映画館へ客が詰めかけ、満員御礼となった。
浅草東映は昨年10月半ばに新築完成し、開館してわずか2か月余りの東映直営館であったが、1800名入る館内が一回目の上映から満席となり、立ち見客でドアが閉まらないほどの大入りになった。この二本立て上映は8日までだったが、連日満員が続き、浅草東映の6日間の観客総動員数は47,249名に上り、収容率は200パーセントに達した。同館では、休日にあふれた客を何回か地下の東映パラス劇場(定員900名)へ移し、同じ映画を上映して急場をしのいだ。収容率というのは、入場者数を定員×上映回数で割った百分率であるが、200パーセントという数字は、データにその観客数を加え、地下の劇場の定員数を無視して、計算したのであろう。
新宿東映(旧館で定員1430名)も記録的な大入りだった。同期間の観客動員数は38,780名、収容率はなんと222パーセントであった。ここでも、浅草東映同様、あふれた客を地下劇場へ回したのであろう。
東京の東映直営館はほかに渋谷、銀座、五反田にあったが、正月の6日間に東京だけで15万以上の人たちが『任侠清水港』を見たことになった。
大阪東映の同期間の観客動員数は、36,289名、福岡東映が29,334名であった。
東映の資料によると、昭和31年末の東映直営館は32館だった。東京、大阪、福岡以外に、札幌、弘前、盛岡、仙台、新潟、富山、横浜、小田原、名古屋、京都大宮、伊賀上野、広島にあった。直営館ではないが、東映作品だけを上映する専門館が全国に673館あり、こうした東映系列の配給網が東映という映画会社を支えていた。ほかに契約館(東映作品だけでなく他社の映画も上映する映画館)が2000館近くあり、東映作品はまさに全国津々浦々で上映されるようになっていた。
昭和29年2月(『笛吹童子』が製作される前)には、直営館5館(東京に4館、横浜に1館)、専門館95館、契約館1536館であったことを見れば、昭和29年下半期から31年までの2年半に東映がいかに驚異的な成長を遂げたかが分かるであろう。
昭和32年の正月は、『任侠清水港』の大当たりによって東映も東映傘下の映画館も大きな収益を上げ、幸先の良いスタートであった。『任侠清水港』の総配給収入は2億円を超えた。前年のオールスター映画『赤穂浪士』の2億6千976万円の記録を破るまでにはいかなかったが、爆発的な大ヒットであった。