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Channel: 錦之助ざんまい
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近況報告―そろそろ始動(その2)

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 今日、東映営業部と連絡を取った。
 錦之助ファンにとってはガッカリするお知らせである。
 実は、『剣は知っていた 紅顔無双流』のニュープリント制作が不可能になってしまった。やはり、マスターポジ(原版)がダメになっていた。ネガもなし、マスターポジもなし、ということで、あるのはデジタル素材(D2という素材)だけ、だそうなのだ。これは、ずいぶん前にビデオを作った時に、ネガ(当時すでに劣化していたが…)からポジを作って、デジタルで取り込んだ画像音声データのことで、これを使って今でも東映チャンネルで放映しているのだが、なんせビデオ時代に作ったものなので、画質が悪いらしい。このデジタル素材から再度フィルムのネガを作って、さらにポジに焼くことは技術的には可能なのだが、べらぼうな費用(280万円ほど)がかかる上、画質は悪いまま、というのだから、要するに、上映プリントを作っても意味がないのだ。そういう次第で、錦之助の美剣士・眉殿喬之介を映画館の大スクリーンで再現しようというファンの夢は、はかなくついえてしまった。ああ、なんとも残念な結果である。
 もう一つ、『江戸の名物男 一心太助』も、ニュープリントは不可能という結論。1月の末、『剣は知っていた 紅顔無双流』の依頼をした時に、ついでに『江戸の名物男』も調査してほしいと頼んでおいた。「一心太助」シリーズ第一作、沢島忠監督と錦ちゃんの名作である。にもかかわらず、この映画も、上映プリントもネガもない。マスターポジがあることは聞いていたので、ネガを作ってさらに上映プリントを焼くといくらかかるか、見積りを出してほしいと依頼してあった。実は、こちらもものすごい費用がかかるというのだ。300万円を越えるというので、びっくり仰天した。マスターポジが画像だけで、音声は別データに保存してあるので、シンクロさせるのに費用がかかり、しかも白黒なのでカラーより割高になるのだそうだ。昔はカラーの方が高かったが、今は白黒フィルムの方がマイナーなので、費用がかかるという。
 これでは、マスターポジにして保存しておく意味がない。どうせ、観られないのだから。
 東映営業部の担当舎の話では、ニュープリントの制作を行っている東映ラボ・テック(東映の系列会社)に直接交渉してみたらどうかということだったが、私は意気消沈、戦意喪失してしまった。内心、別会社のイマジカなら、もっと安くできるのではないかとも思ったが、東映のソフトは系列の東映ラボ・テックが一手に引き受けているので、別会社に外注するのは無理である。
 ところで、『関の弥太ッペ』は、20万円ほどでニュープリントが作れるそうだ。
 なんだかやる気がなくなる一日であった。



錦ちゃんファンからの反響

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 最近、「錦之助映画ファンの会」の数名の女性の方から電話連絡をいただき、ニュープリントにできなかった作品『紅顔無双流 剣は知っていた』に対する、落胆、失望、そして、やり場のない憤懣をお聞きした。居ても立ってもいられなかったのだろう。残念さと怒りが入り混じった気持ちを錦ちゃんファンの誰かに伝え、その気持ちを分かち合いたかったにちがいない。錦ちゃんが演じた眉殿喬之介、あの孤高で凛々しい美剣士を、もう二度と映画館のスクリーンで観られない。『紅顔無双流』のニュープリントが作れなくなったという報告は、ファンの会の皆さんに予想以上の大きなショックを与えたようだ。ある熱烈な女性ファンなど、布団をかぶって二日間寝込んでしまったという。残念を通り越して、もう悔しくてたまらないといった様子であった。
 ファンの会には、現在約80名の会員がいるが、そのうち60名は女性である。その60名のうち約40名は、「笛吹童子」世代であり、リアルタイムで錦ちゃんの映画を観て熱心なファンになった方々で、彼女たちのほとんどは、美しい錦ちゃんが好きなのである。かく言う私は男であり、昭和30年代以降にファンになった若輩者なので、錦之助が演じた役柄の好みがいささか違う。お澄ましした二枚目の錦ちゃん、メイクで美しい顔を作った錦ちゃんもいいが、どちらかと言うと、二枚目半で元気いっぱいの錦ちゃん、茶目っ気のあるやんちゃ坊主の錦ちゃん、素顔に近い錦ちゃんの方が好きなのだ。だから、正直言って、熱烈な女性ファンとは合わない面もある。錦ちゃんの女形を熱愛したり、美少年、美青年に扮した錦ちゃんに胸ときめかせる彼女たちの気持はどうも共感できないところがある。『紅顔無双流』がスクリーンで観られないことは、もちろん私も残念でならない。しかし、錦ちゃんファンのお姉さま方が、なぜそんなに『紅顔無双流』の眉殿喬之介にこだわるのか、頭では理解できても、その思い入れの強さはどうも実感できない。確かに、錦之助のいわゆる美剣士ものの中で、眉殿喬之介は魅力満点、多分ナンバーワンであろう。が、それはあくまでも女性の目から見た魅力なのだと思う。この映画がことのほかお好きな女性ファンと話をしていて分かったことは、当時女子高校生あるいは中学生だった皆さんは、錦ちゃんの眉殿喬之介を見て、胸高鳴らせ、乙女心をむんずとつかまれたのだそうだ。つまり、この映画で決定的に錦ちゃんファンになった。言い換えれば、彼女たちは、精神的に錦ちゃんと結婚したのである。それほど女性ファンにとっては欠けがいのない映画であるから、ニュープリントができなくなったと知って、寝込んでしまうほどのショックを受けたのは当然なのかもしれない。
 
 ところで、電話で皆さんから励ましもいただいた。いや、要望といったほうがいい。それは、このブログに、錦ちゃんの話を何でもいいからもっと書いてほしい、少しでもいいから、間をあけずに、マメに書くように、ということだった。極力、心がけたいと思う。


成澤昌茂さんからうかがった話

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 これから書くことは、昨年の秋、脚本家の成澤昌茂さんにお会いして直接うかがった話である。成澤さんといえば、溝口健二監督のお弟子さんで、溝口作品では『噂の女』『楊貴妃』『新、平家物語』(この三作の脚本は依田義賢と共同執筆)そして溝口監督の遺作『赤線地帯』の脚本を書かれた方である。溝口監督の死後、成澤さんは、東映の錦之助主演作の脚本を八本、手がけている。『風と女と旅鴉』『美男城』『浪花の恋の物語』『親鸞』『続親鸞』『江戸っ子繁盛記』『宮本武蔵(第一部)』『関の弥太ッペ』がそれである。東映時代劇全盛時代の後期(昭和33年〜38年)にあって、成澤さんは、言うならば中村錦之助の座付作者であった。この頃、成澤さんは東映京都作品ではほとんど錦之助主演作の脚本だけを書いていた。
 
 そこでまず、異色作『風と女と旅鴉』の脚本を書いたきっかけを尋ねた。
「東映の岡田茂さんから頼まれましてね。東映のスター錦之助がお子様映画や娯楽映画ばかりに出ていてマンネリ化してきたので、岡田さんから傾向の違った芸術的な映画を一本書いてくれと言われました。タネを明かせば、アメリカの西部劇を参考にして書いたのがこの作品です。監督は最初、松田定次さんを予定していたのですが、加藤泰さんに代わって、ちょっと不満でした。」
 『風と女と旅鴉』は成澤さんが東映のために初めて脚本を書いた記念すべき作品で、以後、東映京都時代劇で錦之助主演のこれぞという大作は、成澤さんが脚本を担当することになる。それらの脚本は全部、主演の錦ちゃんをイメージして書いたそうだ。
「錦ちゃんが作品ごとにどんどん成長して、油が乗っていくのを見るのが楽しみでしたね。」
 『風と女と旅鴉』はなぜか松竹会長の大谷竹次郎が観て、脚本を気に入ってくれ、今度は大谷会長から松竹歌舞伎の脚本を依頼されるようになったそうだ。

 次は『浪花の恋の物語』の話。錦ちゃんの相手役に有馬稲子さんを連れてくるため松竹と交渉したのは、この映画の脚本を書いた成澤さん自身だったそうだ。
「当時有馬さんは松竹専属だったので、大谷さんと話し合って、私が松竹の芝居の脚本を書くかわりに有馬さんを東映のこの映画に出演させてもらったんですよ。」
 『浪花の恋の物語』は、これまた大谷会長が観て、監督の内田吐夢は歌舞伎が分かっていないと言ったそうだ。この映画の劇中劇で浄瑠璃の舞台シーンについてなのだが、最初に幕が開く時、幕を引く方向が逆だとのこと。つまり、舞台の上手(見物席から見て右の方)から下手(左の方)へ幕を引いていくのは、間違いで、下手から上手に引くのが本当だというのが大谷会長の指摘だった。成澤さんからこの話を聞いて、私も映画で舞台が出てくると幕を引く方向に気をつけるようになった。確か『藤十郎の恋』(山本嘉次郎監督、長谷川一夫、入江たか子主演)だったと思うが、京都の芝居小屋が出てきて、ここでは『浪花の恋の物語』と同じように、上手から下手に幕を引いていた。これも間違いなのか。

 成澤さんへのインタビューは3時間に及ぶもので、まだまだある。ただし、テープに録音しなかったので、インタビューが終ってすぐ印象に残った言葉をメモに取った。もちろん錦之助映画以外のことも多く、公表できない裏話もあるが、メモを見ながら、私が記憶していることも加えて、次回も書いてみたい。(つづく)



TBSラジオで萬屋錦之介を紹介

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 おととい、錦之助映画ファンの会のNさんから電話があった。
「今度の6日の日曜、ラジオで錦ちゃんの特集があるようだけど、背寒さん、知ってる?」
「知りませんね。ラジオでやるって、何、するんですか?」と私。
「爆笑問題が司会をしている番組で、萬屋錦之介を取り上げるんですって。27人の証言っていうタイトルが付いているんだけど」
「27人の証言?錦ちゃんを裁判にでもかけようってわけですかね」
「TBSラジオのホームページに出てるんんだけど、見てよ」
「あとで見ておきます」
「それでね。ファンの会の人たちに知らせてあげたほうがいいと思うのよ」
「じゃあ、ブログに書きますよ」
「それがいいわね。それと、ラジオ局にどんなことやるのか、背寒さん、聞いてくれないかしら」
「めんどくさいなー。TBSラジオですか。ま、電話で聞いてみますかね」
「じゃあ、お願い。よろしく」ガチャン。
 というわけで、私は、局のホームページを覗いて、ざっと番組内容を確かめた。
 <爆笑問題の日曜サンデー> 
 日曜もサンデーも同じじゃないか!
 なになに、<午後1時〜5時 4時間生放送>
 目を左にやると、囲みの掲示があって、
 27人の証言!
 萬屋錦之助特集

 歌舞伎役者・俳優の萬屋錦之助さんを大特集!
 歌舞伎、映画、ドラマなどで幅広く活躍

 皆様からの証言もお待ちしています!
 
 おいおい、錦之助の「助」が違うじゃないか!私はガチンと来た。
 なんていい加減なんだ!特集をやるにしても、名前を間違えるとはケシカラン。
 中村錦之助、萬屋錦之介だろ!
 錦ちゃんの名前を間違えている印刷物を時々見かけるが、いつも頭に来る。萬屋錦之助、中村錦之介、いちばんひどいのが、万屋錦之助、それと、中村綿之助。(「錦」が「綿」になっている!)

 早速、TBSラジオに電話をかけた。抗議の電話である。
 代表番号に出た交換手から、番組制作部に回され、女性のスタッフが出た。
「これこれこういう者ですが…(私の名前と肩書、もちろん錦之助映画ファンの会の代表であることも言っちゃった)、日曜サンデーという番組を担当している方はおられますか?」
「どういうご用件ですか?」
 ここで私は、ぐっと気持ちを抑え、
「27人の証言という特集で、錦之助さんを取り上げるということすが、番組を聴いたことがないんで、内容を教えてもらえませんか?」
「あいにく今、ディレクターがいないので、あとでこちらからご連絡さしあげますけど…」
「じゃあ、そうしてください」
 私はもう一度私の名前を言い、電話番号を教えて、電話を切った。
 それから、昨日も今日も、今のところ、番組のディレクター氏とは連絡がつかない。
 ただし、昨日は夕方から、今日は午後1時ごろから仕事場にいなかったので、もしかすると電話があったのかもしれない。
 以上、報告まで。
 
 

ファンの会の記念小冊子「青春二十一」

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 3月に入ってずっと、錦之助映画ファンの会の記念小冊子の編集制作をやっていた。先週の金曜にそれがやっと終わった。印刷所へ入稿したので、4月1日には完成予定である。
 その間、東北関東大震災があり、私の家も仕事場も別に被害はなく、ただ本箱の上段の本が崩れ落ちただけだったが、その後テレビのニュースをずっと見ていた。東京にも何度か地震があり、原発問題や節電への心配もあり、また家庭の事情もあって、落ち着かなかった。が、こういう時には、外に出ないで、本の編集制作に励もうと思い、集中的に仕事をした。3月初めには、もしかすると今月中には出来ないかもしれないと思っていたが、すべての誘惑を断って(映画へ行かない、本を読まない、人に会わない)、最初の予定通り、4月2日発行の運びになった。この2週間は、テレビのニュースを観る時以外は、ほとんどの時間、パソコンの編集ソフトに向かい合っていた。円尾敏郎さんにはいつものことだが、校正を手伝ってもらい、感謝。
 錦之助映画ファンの会の小冊子というのは、「青春二十一」というタイトルで、会報というよりむしろ錦之助ファンのための記念本に近いものである。一昨年に出版した「一心 錦之助」の続篇のような本だと思っていただけばよい。あの本ほど写真は入っていないが、それでも東映に高額の著作権料を払って、スチール写真を5枚使った。スナップ写真も十数枚使っている。内容は、「錦之助映画祭り」のレポートに加え、錦之助関係のいろいろな記事を掲載している。
 まず、京都での有馬稲子さんのトークショー(中島貞夫監督が聞き手)と故・千原しのぶさんのトークショー(円尾敏郎氏が聞き手)の模様を収録してある。それと、近代映画社の小杉修造社長に先日私がインタビューした記事が載っている。昔、「近代映画」の編集者として小杉さんが錦ちゃんに取材した時の話、錦ちゃんとお母様がアメリカ旅行をした際、小杉さんが各地を案内した時のエピソードなどが語られている。私が以前このブログに書いた記事も一部改稿して載せた。錦之助映画論としては、「剣は知っていた 紅顔無双流」を書き改めて載せた。ニュープリント制作が不可能になったことに対する腹いせもあってのことだ。
 今回の小冊子「青春二十一」(第一巻)、巻頭写真ページが8ページ、本文80ページで、カバーは四色刷で、表紙には画家の植木金矢さんの快諾をいただき、植木さんが描いた『あばれ纏千両肌』の野狐三次を使っている。薄いけれどもかなり豪華な冊子である。限定版500部、錦之助映画ファンの会の会員と関係者各位へは1冊無料進呈。ファンの会の皆さんへは、4月2日・3日の総会の出席者には手渡し、欠席者には郵送。一般の方々への販売もするが、定価1000円(税別)。全国の書店で注文すれば入手可能。ネット書店でも販売予定。第二巻は今年の夏以降に発行したいと思っている。
 
 

ご無沙汰していました。

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 4月の半ばから約50日間、ずっと新刊本の編集制作をやっていた。錦ちゃんとはまったく関係ない本で、ガラクタ屋さんの本である。
 4月に行った錦之助映画ファンの会のパーティに出席された方は、土曜日に錦ちゃんのブロマイドなどを売っていた中年男性を見かけたと思うが、あの人のエッセイ&写真集で、タイトルは「東京都ガラクタ区お宝村」。 先週の金曜日に印刷所に入稿したので、今週金曜日には出来上がる。
 このところ、映画の本ばかり発行していたので、ずっと赤字続きで、なんとかしなければと思っていた。今度の本は一般向きで、もしかすると売れるかもしれない。昭和のレトロといった内容である。
 表紙と宣伝用のコピーだけ以下に紹介しておく。今月20日には主に東京首都圏で発売になるので、錦ちゃんとは全く関係ないが、興味のある方は大きな書店でぜひ問い合わせていただきい。ネット書店でも販売する。
 今週から私は書店営業をやっている。注文とりである。これも6月中にはひと段落するので、それから「青春二十一 第二巻」の編集を開始する予定。

<宣伝コピー>
 東京の古い家や店には、ガラクタに埋もれて、お宝が埋まっている。
 二十年間東京中を歩き回り、数々の珍品・お宝を掘り出して来た古物商のドキュメント。譲ってくれた持ち主たちへの感謝を込めて、いよいよ発刊!
 全ページ・カラー版。著者が撮った写真300枚掲載。定価:1600円(税別)

雑感

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 新刊「お宝村」の書店営業がようやく終わりそうで、少しずつ自分の時間が持てるようになってきた。 今週は、ポップを50枚ほど作って、平積みにして販売してもらっている書店へ配っている。今日は、市ヶ谷の文教堂、秋葉原の有隣堂と書泉ブックタワー、御徒町の明正堂、北千住のブックファーストと紀伊国屋を回ってきた。なにしろ暑かった。気温30度はあったと思う。 

 今のところ、本の売れ行きはボチボチである。一番売れているのは神田神保町の東京堂本店で、10冊積んであった本が4冊売れた。客層も本に合っている上に、置かれている場所が良いからだ。レジ前の話題書コーナーで人目につく。やはり、本は置き場で売れ行きが相当違う。 「お宝村」というこの本、幸い、書店の受けは良い。あちこちの書店で、3冊、5冊、10冊と注文がもらえる。一番多いところで20冊注文をくれた書店がある。神保町の東京堂ふくろう店とジュンク堂大阪本店である。本のタイトルは「東京都ガラクタ区お宝村」であるにもかかわらず、大阪のジュンク堂で売れるのかなあ、と思う。

 現在のところ、東京首都圏の150店ほどに約800冊配本し、地方都市の大書店100店へ約300冊配本した。地方では、ジュンク堂はほぼ全店、紀伊国屋は三分の一くらいか。 本は3000冊作ったので、書店へ1200冊配本したら、しばらく様子を見ようと思っている。マスコミが取り上げれば別だが、今のところ全国で一日10冊売れれば良いかなと、だんだん弱気になってきた。

 ネット書店では、アマゾンでやっと買えるようになったが、先週からいかがわしい出品者が新品同様のこの本に5000円以上の値を付けて、売りに出していたので、私は相当頭に来ていた。アマゾンにこういう業者は摘発するようにメールも送ったし、問屋(大阪屋)にも早く販売できるように改善せよと指示を出していたのだが、今日はさすがに私の怒りが爆発してしまった。問屋に電話して、若い担当者ではラチがあかないので責任者を引っ張り出し、怒鳴りまくったので、ようやく解決の方法を得た。そのためか、変な出品者は消えた。(もしかすると高額で誰かが買ったのかもしれない。)が、今でもまだアマゾンの表示が「一時的に在庫切れ、入荷時期は未定です」になっているが、アマゾンに在庫があるように本を納品したので、来週早々にはすぐに買えるようになるはずである。

 話は変わるが、今日は書店回りを終えた夕方、荒川区にある古本屋さんへ行ってきた。田坂具隆監督の戦前作品の貴重なスチール写真数百枚をもう一年も購入予約しているからだ。なにしろ金額が張るし(約70万円)、田坂監督の本もずっと制作しようと思っているのだが、なかなかはかどらないので、予約を延期してもらうよう頼みに行った次第。 明日(もう今日だが)は、映画評論家の渡部保子さんに誘われて、新作映画の試写会へ行く。昼に渋谷で待ち合わせるが、その前に渋谷の紀伊国屋へポップを持って行く予定。

 

渡部保子さんのこと

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 先週の金曜日、渋谷の桜ヶ丘の試写室で『極道めし』という新作映画を観た。観る前の予備知識は、ほぼゼロ。映画評論家の渡部保子さんのお供をして、飛び入りで会場へ入れてもらった。50名ほどしか入らない小さな試写室で、集った人は30名ほど。これで試写会といえるのだろうか。試写会というのは、新聞や雑誌の映画担当者や映画評論家などを招いて、新作を見せ、記事を書いて宣伝してもらうのが目的だと思うが、これではあまりにも寂しい。『極道めし』という映画も喜劇という触れ込みだったが、喜劇にあらず。笑える場面がほとんどない。面白かったのはオッパイプリンが出て来る真ん中の10分くらい。これでは、試写会を開いても逆効果であろう。面白い映画や感動する名作ならば、試写会を開く意味もあり、評判が波紋のように広がって、公開時までの宣伝効果も大きいと思うが、試写会で観た映画がつまらなければ、かえって前評判の悪さが観客動員の低下につながってしまうのではあるまいか。
 『極道めし』というこの映画、9月23日から一般公開ということだが、すでに試写を見せ、ホームページも作って予告編も流している。ずいぶん手回しが早い。試写から一般公開まで、3ヶ月も期間がある。以前ならこんなに間(ま)があくことはなかったと思うが、最近の新作映画はみなそうらしい。映画の完成から6ヶ月くらい経ってやっと一般公開されるのが普通なのだそうだ。昔と違って、新作映画の封切館が少ないため、順番待ちなのだろう。 

 映画を観た後、試写会に誘ってくださった渡部保子さんに付き合ってもらい、東急プラザ内の紀伊国屋書店へ行き「お宝村」のポップを担当者に渡して、書店営業は終了。そのあとは保子さんとデート。渋谷駅の反対側の宮益坂まで腕を組んで歩いたが、それは79歳の女性の足元を気遣ってのこと。彼女の行きつけの釜飯屋でビールを飲み小料理を食べながら、2時間ほどいろいろな話をした。

 渡部保子さんは、昭和28年に映画世界社に入り、月刊誌「映画ファン」の編集部員として多くの記事を書いて活躍された方である。当時としては珍しい美人女性編集者で、錦ちゃんを始め映画全盛期のスター達に直接取材し、彼らに好かれていたので、裏話もなにかと御存知。スター達との交流については保子さんの著書「『映画ファン』スタアの時代」に詳しい。第一章には、錦ちゃん、ひばりちゃん、裕ちゃん、橋蔵さんの順で、彼らとの秘話が語られている。



 保子さんは、昭和33年に日大芸術学部の同窓生で東映動画のキャメラマンになった杉山健児氏(8年前に逝去)と結婚し、お子さんが生れてからしばらくは主婦業に専念していた。が、映画への熱き思いは止みがたく、昭和50年代半ばから再び仕事に復帰し、婦人誌の編集者となり、さらに映画評論の分野で健筆をふるうようになった。また、「日本映画批評家大賞」(水野晴郎氏が創設)の選考委員となり、今年からは白井佳夫氏の後を継いで同賞の選考委員長を務めている。

 私が渡部保子さんと知り合ったのは、5年前の3月、錦友会で催した上映会の後のパーティだった。その後、私が編集制作していた会報に、「映画ファン」のイラストレーターだった直木久蓉氏が描いた錦ちゃんの似顔絵を使わせてもらうため、保子さんに時々連絡を取っていた。そして、一昨年の「錦之助映画祭り」の頃から、親しくお付き合いするようになった。上映会に何度も足を運んでくださり、私が編集した「にんじんくらぶの三大女優」に文章を寄せていただき、また、写真家の早田雄二氏が撮った「映画ファン」の表紙写真を使用できるよう仲介してくださったり、保子さんにはいろいろな協力を仰いでいる。

 昨年の第19回日本映画批評家大賞では、丘さとみさんがゴールデングローリー賞を受賞したが、その際、東京青山の会場に丘さんを引っ張り出すことに私が一役買わせてもらった。日本映画批評家大賞は、作品賞ほか監督賞、男優賞、女優賞など各種の賞があるが、それらの賞をもらうには当人が授賞式に出席することが条件なのだ。昨年の受賞者は錚々たる面々で、萩原健一、寺尾聡、石橋蓮司、ロミ・山田、薬師丸ひろ子、倍賞美津子、赤木春恵ほか、そこに丘さんが加わり、実に盛大であった。私は、自ら買って出て、この日だけ丘さんの付き人をやらせてもらった。丘さんが表彰された時のプレゼンテーターは、もちろん、丘さんとは昔馴染みの渡部保子さんであった。丘さんも、こうした晴れ舞台は久しぶりだったので、大変喜んでいらした。パーティの時、人見知りする丘さんが、寺尾聡さんのファンだと言うので、私が寺尾さんに頼んで(寺尾さんとは私も初対面だった)、丘さんとのツーショット写真を撮影した。



 今年の第20回日本批評家大賞は、東日本大震災の影響もあり、山梨県甲斐市で5月28日に開催された。今回は、渡部保子さんが選考委員長でもあり、また私が親しくしている脚本家の石森史郎さんがエメラルド賞を受賞されるというので、私もお祝いに駆けつける予定だった。が、新刊書「お宝村」の制作が追い込みで、無理を重ねたため、体調を崩してしまい、参加できなかった。本当に残念だった。

 話は戻るが、渋谷の釜飯屋で、保子さんから、今回の日本映画批評家大賞の授賞式の話をいろいろ伺った。それと、錦ちゃんの恋人の話。祇園の舞妓さんのこと、ひばりちゃんとのことなど。錦ちゃんの周りには、他にもいろいろな女性がいたとのことだが、年代によってその移り変わりがあり、有馬さんとアツアツになってからは過去の女性はみんな整理したようである。錦ちゃんもすみに置けない。




錦ちゃんの映画

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 久しぶりに錦ちゃんの映画を観てきた。
 現在、渋谷のシネマヴェーラで加藤泰監督特集をやっているが、土曜日にちょうど『源氏九郎颯爽記 白狐二刀流』を上映していたので、夜9時からの最終回を観に行った。『白狐二刀流』は、約1年3ヶ月ぶりに観た。この作品は、2009年3月の錦之助映画祭りに際し、東映ビデオにお願いしてDVD化してもらい、ニュープリントにしたものだ。
 加藤泰監督のこの作品にはいささか不満もあるが、25歳のピチピチした錦ちゃんの美剣士をスクリーンでまた観ることができて楽しかった。



 7月2日からは神保町シアターで、『紅孔雀』5部作と『七つの誓い』3部作を上映する。前回の『笛吹童子』に続く「夏休み特別企画 昭和の子どもたち?」と題する企画で、「新諸国物語」のパート2である。連日午前10時より1回のみの上映だが、なんとか早起きしてまた全部観ようと思っている。
 



 

ファンの会の催しについて

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ご無沙汰していました。
5月からずっと本の制作と営業で忙しく、夏は読書と執筆に専念していたので、錦之助関係の活動がほとんど出来ませんでした。ブログも何も書かず、申し訳ありませんでした。

そろそろ、錦之助映画ファンの会の活動を再開しようと思います。(私もまた頑張ろうと決心しました。)
さて、11月20日は錦ちゃんの誕生日なので、それに合わせ、11月19日(土)と20日(日)の両日に錦之助映画ファンの会の総会を開催します。
19日は午後6時より前夜祭を、20日は午前9時半より総会になります。
場所は、東京・新橋のいつもの会場です。20日の昼過ぎからはパーティーを予定しています。
詳細は10月初旬に会員のみなさんに書面で郵送します。

それと、「青春二十一」の第二巻を制作しようと思っています。
出来れば11月19日にはみなさんにお渡しできるように編集を進めていきますが、今のところ完成時期は未定です。が、今年中には作るつもりなので、どうぞお楽しみに。

『任俠清水港』(その13)

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 足立に代わって錦之助がやってみることになった。通しで立ち回りをやったあと、
「斬るほうはいいけど、斬られるときの合わせ方が難しいなァ。それに、斬られる瞬間、背筋がぞくぞくしちゃって……心臓にもよくないよ」
 と言う錦之助に、足立が笑いながら言った。
「臆病な石松やな。切っ先、三尺も離れてるんやから、怖がらないでうまく斬られといてや」

 最後の斬り合いの部分は、映画の時間にして約1分40秒。
 松田監督は、これを三分割し、アングルを変えて、長回しで撮ることにした。約30秒のセミロングないしミディアムショットである。初めと中間のこの長いカットには、石松と吉兵衛の1秒前後の短いバストショットを挿入して、死闘の臨場感を加え、リアリティを強調する。斬り合いが始まって1分余りで、そのカット数は12カット。
 松田定次は、1カット1カットを粘り強く丁寧に撮っていく映画監督であった。1秒前後の短いカットに30分以上かけることもざらであった。テストの回数も多く、納得しなければ本番を撮らない。錦之助もテストの多さはいとわなかったが、本番では一発オーケーになるよう全力を尽くした。
 
 カットごとにテスト、本番が繰り返され、ラスト30秒の長回しの撮影に取りかかったのは午前零時を過ぎていた。大詰めである。
 ここは、石松の死に際を静観するように、キャメラを正面に固定しセミロングのワンカットで撮ることになった。テスト二回で、本番が始まった。
 セットの中は、暗くて静かな殺害現場と化し、異様な緊迫感が高まっていた。松田監督、川崎キャメラマン、足立伶二郎、そしてスタッフ全員が現場に居合わせた目撃者であった。
 立ち木の前からザンバラ髪で顔の左側を血で染めた石松がふらふらと歩み出す。もう抵抗する力はない。一度、二度、三度と斬られるたびにうめき声を上げ、右によろけ、左によろける。それでもかろうじて立っている。右手に持った長ドスで足元をさぐるようにして、前へ進もうとした途端、石松は力尽き、ばったりと倒れる。
「カット! オーケー」と松田監督の声が鳴り響いた。
 錦之助は地面に痛いほど胸を打って、そのままうつ伏せになっていた。と、松田監督がまた言った。
「錦ちゃん、そのまんまでいてや。すぐに、アップを撮ります」
 閻魔堂前のシーンの最後のカット、地面に倒れ伏した石松が血と泥にまみれた顔を上げ、「お、親分……」と言うカットである。そしてこれが石松役の錦之助が『任侠清水港』に映る最後の姿なのだが、今わの際の見るも無残な錦之助の表情を特大のクローズアップで撮ったのだ。
「お、親分」という石松の最期の一言は脚本にも書いてあり、このラストカットは次のシーンにつながる重要なカットでもあった。清水の家で寝ていた次郎長がこの石松の顔を夢に見て、飛び起きることになるからである。
 わずか2秒ほどの短いカットであるが、一度見たら脳裏に焼き付いて離れない強烈な映像だった。

「石松は無念の最期やったが、錦ちゃんは、これでもう思い残すことはないやろ」
 と、松田定次が言った。
「殺されてほっとしたって言っちゃなんですけど、また生まれ変わってバリバリ仕事します。監督、ありがとうございました」

 この日の撮影がすべて終了し、最後まで残っていたスタッフが解散したのは午前2時であった。
 錦之助は日誌にこう記している。
――私にとっては生涯二度と来ない誕生日を、再びないような有意義な仕事で送ったことは、印象深く生涯の想い出になることと思う。朝三時頃帰宅して、待っていた賀津雄とともに祝いの食卓にささやかなる一刻を送って、来月仕事終了後、ゆっくり誕生を祝うことを約して床につく。(「錦」第三十号)

『任俠清水港』(その14)

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 12月3日、錦之助は『任侠清水港』で残っていたシーンを撮り終え、石松役はお役御免となった。そして、8日には『七つの誓い』3部作の撮影も終了し、これで今年の映画の仕事をすべて済ませた。朝早くから夜遅くまで撮影漬けの長くて大変な一ヶ月半であった。10月末に風邪を引いて声がかれた。11月末には『七つの誓い 第三部』の初めのシーン(橋蔵の夕月丸との立ち回り)の撮影中、足を負傷した。こうした不測の事態もあったが、なんとか役者としての大役を果たすことができた。あとは、映画の完成と、年の暮れから正月第2週にかけて封切られたとき、その評判が良いことを願うばかりであった。
 15日に夕方から東映京都撮影所で『任侠清水港』の完成試写会が開かれることになった。
 錦之助はこの一週間、雑誌の仕事をするだけで比較的ひまな毎日を送りながら、早く完成した映画が見たくて、首を長くして待っていた。クランク中は忙しくてラッシュも見られなかった。石松の出来栄えはどうなのだろう。これまでの役とはまったく違う役を演じただけに、人の評価も気になってならなかった。
 
 試写会には『任侠清水港』の製作スタッフ、出演者をはじめ、東映社員、マスコミ関係者などが大勢詰めかけ、約200名入る映写室は補助イスを出すほどの超満員であった。専務のマキノ光雄も東京から来ていた。錦之助はマキノに会釈すると、用意された席についた。
 映画が始まった。深井史郎の音楽が流れる。明るく心躍る晴れやかなお祭り調で、郷愁を感じさせるような旋律である。富士山を望む清水港の絵をバックに「任侠清水港」の文字が映り、クレジットタイトルにずらっと東映スタッフの名前が並ぶ。
 配役のトップは大前田英五郎役の市川右太衛門の一枚看板。前年のオールスター映画『赤穂浪士』では主役の大石内蔵助を演じた右太衛門がトリに回り、トップ(普通、映画の配役では主役の名前が最初に出る)を立花左近役の千恵蔵に譲ったが、今年はその逆を行き、主役の次郎長の千恵蔵がトリに回ったわけで、御大二人を立てる東映の内部事情によるものだ。次に、中村錦之助、伏見扇太郎、大川橋蔵の三人。錦之助は若手ナンバーワンの位置である。続いて、女優四人。高千穂ひづる、千原しのぶ、植木千恵、長谷川裕見子。そのあと、五人、六人、七人と次から次に俳優が並び、花柳小菊、進藤英太郎、三浦光子の三人が出て、男優三人、大友柳太朗、東千代之介、月形龍之介、トリに一枚看板で片岡千恵蔵。最後に監督松田定次の名前である。
 富士山の実写からファーストシーンが始まると、テンポよく話が進んでいった。観客がみな画面に引きつけられている様子がありありと窺えた。途中でどよめきや歓声が起こり、映画の三分の二の60分があっと言う間に過ぎた。いよいよ石松が金毘羅参りの帰途、遠州の町の祭礼で都鳥の吉兵衛に出会い、悲劇の結末へとなだれ込んでいく圧巻の15分が始まった。錦之助は思わず身を乗り出した。
 今わの際に「お、親分!」と言う石松の顔のアップが映り終わると、あちこちで深いため息が聞こえた。息を呑み食い入るように画面を見ていた観客の反応だった。
 錦之助は、まず、映画の出来栄えが素晴らしいことに感心し、何よりも嬉しく思った。自分の演じた石松については、前半の二枚目半ないし三枚目の演技に物足りなさを感じた。笑いがあまり取れなかったのは今一歩突っ込みが足りなかったからだろう。しかし、後半の石松は自分なりによく出来たと思い、満足した。
 100分の映画が終わって、大きな拍手が巻き起こった。
 
 試写のあと、食堂で立食のパーティが開かれた。あちこちに輪ができ、会話がはずんでいた。
 千恵蔵のそばに、花柳小菊、進藤英太郎、玉木潤一郎らがいた。麻雀仲間たちでもあった。
 錦之助はまっ先に千恵蔵のところへ行き、挨拶した。
「先生、ありがとうございました。いろいろ勉強になりました」
 千恵蔵は目を細めて、
「よく頑張ったよ。これで役の幅が広がったし、良かったじゃないか」と言った。
 すると、マキノ光雄が向こうからやって来て、大声で言った。
「錦ちゃんの石松、良かったで!」
「ほんとですか?」と錦之助は驚いた。マキノは、こと映画の話になると、歯に衣を着せずにズバズバ本音を言い、めったに褒めないことで知られていた。
「あの立ち回り、今までんなかで一番やった。見てて、おまえほんまに死んじゃうんやないか、そんな気ィしたわ」
 錦之助はマキノにそう言われて、歓喜のあまり目頭が熱くなった。


『任俠清水港』(その15)

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 『任侠清水港』を撮り終わった後、監督の松田定次は、錦之助について、「近代映画」誌のインタビューにこう語った。(「近代映画」昭和32年2月号所載「ごひいきスター読本 中村錦之助」)
――やっていることが実にしっかりとしていて、ものおじしない割り切った演技です。充分に自分を出しきれないで芝居をしている人がいますが、彼の場合、良かれ悪しかれ、自分の持っているものを充分に出し切って芝居していますね。この点に惹かれるんじゃないでしょうか。いわゆる体当り的演技にね。それと、熱心さと負けん気が目立ちますね。とことんまでやりぬく熱意と誰にも負けんぞーというガンバリの精神が……。若手のスターの中でもずばぬけた存在で将来の大スターとして太鼓判を押していいと思います。
 
 年が明けて、昭和32年の正月。3日からオールスター映画『任侠清水港』は全国の東映系映画館で封切られた。併映は娯楽版中篇の『新諸国物語 七つの誓い(第二部)奴隷船の巻』であった。邦画界初のカラー映画の新作二本立てで、しかも、日本人が好む次郎長物と、子供たちに人気のある「新諸国物語」シリーズの一篇である。
 初日の3日は朝から東映の映画館へ客が詰めかけ、満員御礼となった。
 浅草東映は昨年10月半ばに新築完成し、開館してわずか2か月余りの東映直営館であったが、1800名入る館内が一回目の上映から満席となり、立ち見客でドアが閉まらないほどの大入りになった。この二本立て上映は8日までだったが、連日満員が続き、浅草東映の6日間の観客総動員数は47,249名に上り、収容率は200パーセントに達した。同館では、休日にあふれた客を何回か地下の東映パラス劇場(定員900名)へ移し、同じ映画を上映して急場をしのいだ。収容率というのは、入場者数を定員×上映回数で割った百分率であるが、200パーセントという数字は、データにその観客数を加え、地下の劇場の定員数を無視して、計算したのであろう。
 新宿東映(旧館で定員1430名)も記録的な大入りだった。同期間の観客動員数は38,780名、収容率はなんと222パーセントであった。ここでも、浅草東映同様、あふれた客を地下劇場へ回したのであろう。
 東京の東映直営館はほかに渋谷、銀座、五反田にあったが、正月の6日間に東京だけで15万以上の人たちが『任侠清水港』を見たことになった。
 大阪東映の同期間の観客動員数は、36,289名、福岡東映が29,334名であった。

 東映の資料によると、昭和31年末の東映直営館は32館だった。東京、大阪、福岡以外に、札幌、弘前、盛岡、仙台、新潟、富山、横浜、小田原、名古屋、京都大宮、伊賀上野、広島にあった。直営館ではないが、東映作品だけを上映する専門館が全国に673館あり、こうした東映系列の配給網が東映という映画会社を支えていた。ほかに契約館(東映作品だけでなく他社の映画も上映する映画館)が2000館近くあり、東映作品はまさに全国津々浦々で上映されるようになっていた。
 昭和29年2月(『笛吹童子』が製作される前)には、直営館5館(東京に4館、横浜に1館)、専門館95館、契約館1536館であったことを見れば、昭和29年下半期から31年までの2年半に東映がいかに驚異的な成長を遂げたかが分かるであろう。

 昭和32年の正月は、『任侠清水港』の大当たりによって東映も東映傘下の映画館も大きな収益を上げ、幸先の良いスタートであった。『任侠清水港』の総配給収入は2億円を超えた。前年のオールスター映画『赤穂浪士』の2億6千976万円の記録を破るまでにはいかなかったが、爆発的な大ヒットであった。


『任侠清水港』(最終回)

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 『任侠清水港』で錦之助の石松を見た観客は、錦之助の変身ぶりに最初は驚いた。が、見ているうちに、錦之助が石松役にぴったりはまっているように感じ始め、その魅力に惹きつけられていった。お人よしで愛嬌のある錦之助の石松に共感を覚え、映画の途中からは、石松とともに喜び、がっかりし、悔しがって、観客はすっかり石松に感情移入していた。
 錦之助ファンの反応も同じだった。最愛の錦ちゃんが森の石松をやると聞いて、熱心な女性ファンたちは皆、期待より不安を募らせていたが、映画を見て、そんな不安は吹き飛んでしまった。彼女たちは、錦之助の役に賭ける意欲も努力も知っていた。それだけに、石松に成りきっている錦之助を目の当たりにし、胸を熱くした。そして、映画館で一般の客が錦之助を感心して見ている様子を感じて、身内が褒められている時のように喜んだ。
 錦之助の後援会「錦」は、昭和32年初めには会員数1万8千人を超え、そのほとんどが10代から20代初めの女子であった。会誌「錦」の第三十二号に、錦之助の石松について何人かの感想が載っているので、その一部を紹介しておこう。
――森の石松は錦ちゃんにピッタリでした。演技の昇進も目に見えてはっきりわかりました。自然、本当に自然でした。片目で、ともすれば、くずれがちな顔にも錦ちゃんの熱意のこもったメーキャップで、とても無邪気な、けがれのなさが出ておりました。
――錦之助さんは、二枚目のイメージを惜しげもなく捨てて、とぼけた味と人の良さと、いかにも胸のすく喧嘩早い石松になりきっての力演。人であふれる場内に笑いが絶えない。けれど、その三枚目ぶりのかげにつつまれている思い切った役柄にぶつかっていられる錦之助さんの峻烈な意気が、人知らずしのばれて、笑いながら泣いてしまいました。
――石松が、善意と明るさに満ちあふれた一途な情熱の人として描かれ、また錦之助さんもその石松を何のケレン味も嫌味もなく、サバッとやってのけた意欲の凄まじさを、私はこの身に痛いほどシミジミと感じます。
――今こうしてペンをとっていても、あの都鳥に闇討ちにされる場面が目にうかんできます。「親分……」といって倒れたあの石松の最期。とめどもなく流れる涙をどうすることもできませんでした。
 
 新聞や雑誌の映画評も好意的だった、石松を意欲的に演じた錦之助に注目し、演技の成長と役柄の幅を広げた成果を評価した。
――二枚目スターの金看板に気がねせず、堂々、片眼で三枚目という森の石松をやってのけた心根は見事。演技また上出来。これで錦之助の芸域はグッと広くなった。(「近代映画」昭和32年3月号「今月の映画評」『任侠清水港』より)

 映画評論家の南部僑一郎は、早くから錦之助に期待をかけ、応援してきた人だが、錦之助の石松に対し、惜しみない賛辞を送った。「近代映画」(昭和32年3月号)に連載中の「ぼくのスター評」に、南部は「美事な蝉脱―錦之助の石松を賞讃する―」と題して、こんな文章を書いている。
――今度の森の石松の役は、はじめから彼がぜひやりたいと大いに希望していたものだと聞いた。まことに美事な脱皮ぶりで、すっと胸のすく思いがしたものだ。錦之助の美男ぶりを賞する人々は、この善良だがみっともない、人にふられる役を好まないかも知れぬ。だが、いつも同じ美男よりも、こうした役が演技修業の役に立つことだし、第一、この次に美しくなれば、その美男ぶりが、もっと冴えてみえようというものである。彼がこの石松役をえらび、忠実に石松を演技したことにこの上ない大きな悦びを感じるのは、ぼく一人ではあるまい。少なくとも、昭和三十二年度初頭の錦之助は、新しい道に一歩を踏み出したと云えるだろう。

『浪花の恋の物語』(その1)

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 近松門左衛門の「冥途の飛脚」を東映が映画化する企画が持ち上がったのは、昭和33年の暮であった。
 きっかけは、シナリオライターの成沢昌茂が12月半ばに渋谷の東横ホールで「恋飛脚大和往来」を観たことだった。
 近松の浄瑠璃「冥途の飛脚」を改作して歌舞伎狂言にしたのが「恋飛脚大和往来」である。江戸時代後期から幾度となく上演されてきた人気の高い世話物で、登場する男女の主人公の名を借りて、通称「梅川・忠兵衛」、略して「梅忠」と呼ばれている。梅川は大坂・新町の女郎、忠兵衛は飛脚問屋亀屋の養子跡継ぎであるが、忠兵衛が公金を横領して、梅川を身請けし、二人で駆け落ちする話である。
 この年12月の東横ホールでは、守田勘弥(十四代目)の忠兵衛、市川松蔦(三代目)の梅川で、「封印切」の場と「新口村」の場の二幕が上演されていた。
 その時、東映社員の鈴木尚之が成沢昌茂とともに芝居を観ていた。鈴木は、日大芸術学部卒業で成沢の後輩であった。のちに鈴木尚之は、成沢が『宮本武蔵』第一部のシナリオを書く時に助手を務め、その後シナリオライターとして一本立ちするが、この頃はまだ東映本社の企画本部にいて、映画のプロットを書いたり、シナリオの改訂を手伝ったりしていた。
 芝居がはねたあと、二人の話がはずんだ。「梅川・忠兵衛」を映画にしてみたらどうかということになって、鈴木が成沢にシナリオの執筆を勧めた。
「錦ちゃんが忠兵衛をやるのなら、ぼくが書いてもいいですね」
 成沢は、この年すでに錦之助主演作品のシナリオを二本書いていた。アメリカ映画の西部劇を翻案した異色の股旅映画『風と女と旅鴉』と柴田錬三郎原作の『美男城』である。前者は加藤泰監督が撮り、4月に公開されていたが、後者は佐々木康監督によって来年早々にクランクインする予定であった。
 成沢は、『風と女と旅鴉』で主役を演じた錦之助を見て、スター性と演技力を兼ね備えた稀有な役者であると感じ、錦之助のためにシナリオを書く意欲を大いにそそられた。錦之助も成沢の書いたシナリオは、これまで出演した娯楽的な映画のシナリオとは違い、人間の心理が深いところまで描かれていると感じ、高く評価していた。
 成沢は、仕事の関係上、錦之助の兄で東映のプロデューサーの小川三喜雄(貴也)と何度か会い、親しくなった。三喜雄は、錦之助の主演映画を一手に引き受け、企画の段階からタッチし、会社上層部と製作の交渉をしたり、シナリオライターや監督と打合せをしたりしていた。
 鈴木も三喜雄とは親しかった。同じ企画本部に所属していて、企画について相談し合ったりしていた。二人とも昭和4年10月生まれで、東映入社も昭和29年の同期であった。
「三喜雄さんには、ぼくから訊いてみましょう」と鈴木は言った。
 問題は、監督と梅川役の女優である。(つづく)



『浪花の恋の物語』(その2)

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「監督は吐夢さんがいいと思いますけど……」と鈴木尚之が続けて言った。
 内田吐夢は、鈴木が最も敬愛し、また親しく接している監督であった。吐夢と仕事上の付き合いが始まったのは、『黒田騒動』(昭和30年秋に製作)からで、すでに9本の吐夢作品に関わって、企画準備やシナリオの完成に協力してきた。
 2年前に、吐夢は近松原作の映画を撮っていた。近松の「丹波与作・待夜小室節」、歌舞伎のいわゆる「重の井子別れ」を映画化した『暴れん坊街道』(昭和31年秋に製作)である。溝口健二監督作品の名脚本家であった依田義賢が溝口亡きあと、初めて吐夢と組んでシナリオを練り上げた。重要な役のキャスティングも吐夢の思い通りに行った。現代劇専門の佐野周二を主役の与作に抜擢し、重の井には山田五十鈴を迎え、さらに馬子の三吉に天才的な子役の植木基晴(千恵蔵の長男)をあてたのである。『暴れん坊街道』は、久しぶりに吐夢の演出が冴え、この三者が好演し(加えて千原しのぶも好演)、吐夢の戦後復帰第一作『血槍富士』以来の佳作になった。その勢いに乗って、吐夢が取り組んだ大作が『大菩薩峠』(第一部は昭和32年春の製作)であった。
 吐夢は、マンネリを嫌い、自分が作った映画のリメイクを断り、会社企画の映画でも常に何か新しいものに挑戦する気概をもって、一作一作、映画作りに打ち込んでいる。そんな吐夢が再び近松原作の映画を引き受けるかどうか、鈴木は思わず首をかしげた。
『大菩薩峠』三部作の完結篇は来年春に撮影予定であるが、それが終わったあとの吐夢作品は今のところ何も決まっていない。企画担当の鈴木も焦っていた。
 成沢昌茂は、最初、監督には松田定次かマキノ雅弘を頭に浮かべていたが、鈴木に内田吐夢はどうかと言われて、
「そうだ、吐夢さんがいい、いや、吐夢さんが最適かもしれない」と言った。
 成沢は、これまで吐夢の映画のシナリオを書いたことはなかったが、恩師の溝口健二から彼の話は聞いていたし、映画も数本見ていた。
 吐夢には溝口にない逞しさと論理があり、また溝口のように人間を冷徹な目でリアルに捉えるのではなく、吐夢はむしろ人間を主観的に見て、自己投影しながら描いていく傾向が強い。だから、溝口は異性の女を主人公にして描くのが得意で、吐夢は同性の男を描くのが得意なのだろう、と成沢は思っていた。
「吐夢さんなら、『梅忠』も線の太い映画になりますね。男と女の情話を新派みたいに描いても面白くないですからね」
 そう言われると鈴木も自信が湧いてきた。確かにマキノ雅弘なら、こうした題材はお手のもので、喜んで演出するだろう。が、しかし、レディーメイドな娯楽映画になることは目に見えているのではなかろうか。吐夢が監督すれば、人間の内奥に迫った芸術的な問題作ができるにちがいない。
「梅川にはだれがいいでしょうかね」と鈴木は成沢に尋ねた。
「東映にはいないような気がしますが……」
 鈴木も東映の女優たちの顔を思い浮かべてみたが、これぞという候補が見当たらなかった。他社から借りてくるか、フリーの女優を探すしかないかもしれない。成沢も同意見であった。
「まあ、梅川のほうは、錦ちゃんの忠兵衛が決まったら、考えればいいでしょう」
「そうですね」と鈴木も頷いた。
 こうして二人は渋谷で別れた。(つづく)


『浪花の恋の物語』(その3)

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 12月22日の午後――。
 正月作品『殿さま弥次喜多 捕物道中』が昨日クランク・アップして、錦之助は京都から弟の賀津雄といっしょに東京へ帰って、青山の実家にいた。
 今年の映画の仕事は全部終わってほっとした気分だったが、まだゆっくり休むわけにはいかなかった。実家には一日だけ居て、夜にはまた賀津雄とともに沖縄へ飛行機で旅立つのだ。沖縄の錦之助後援会の招きで、那覇市の劇場で舞台挨拶をして、舞踊と立廻りの実演を行なうためである。錦之助にとっては初めての沖縄で、クリスマスをはさむ一週間の滞在で観光も兼ねていたので、わくわくして心も浮きたっていた。
 旅行の仕度をしている錦之助に、東映本社にいる兄の三喜雄から電話が入った。来年撮る映画の企画についての話であった。
「まだ本決まりじゃないんだけど、すごい企画があるんだよ」
三喜雄の声から興奮ぶりが伝わってくる。
「へえ、どんな?」
「企画部の鈴木君から、ぜひやらないかって言われたんだ」
「なんだよ。もったいぶらないで早く言えよ」
「実は、近松の『梅川・忠兵衛』をさ、来年の夏あたりに映画にしようって話なんだ。やるかい、忠兵衛?」
「えっ!やるに決まってるじゃないか。来たか忠さん待ってたホイだ」
「真面目に聞けよ。ホンは成沢さんが書いて、監督は吐夢さんが引き受けるってことなんだよ」
「ほんとかよ。すごいね」
「この企画、進めていいよな」
「いいよ。よきにはからえ!」
 電話を切って、錦之助は小躍りして喜んだ。
 いつか絶対に、近松の世話物の主人公をやってみたい。これは錦之助が歌舞伎役者だった二十歳の頃に抱いた夢であった。その頃はちょうど近松生誕三百年(昭和28年)で、歌舞伎界は近松ブームだった。錦之助もその中にどっぷり浸かって、近松の劇作の素晴らしさに感激し、大きな影響を受けたのである。
 映画界に入ってから、この夢は願望に変わり、錦之助はなんとかそれを実現させたいと思っていた。心中物では「曽根崎心中」の徳兵衛、いわゆる犯罪物では「女殺油地獄」の与兵衛がとくに演じてみたい役であった。
 3年ほど前、錦之助は「女殺油地獄」の与兵衛をぜひやらせてほしいと、専務のマキノ光雄に進言したことがあった。しかし、マキノは、首を縦に振らなかった。極道息子で女殺しの役だから錦之助には向かないと考えたのだろう。そのうち「女殺油地獄」は東宝に先取りされ、映画にされてしまった。主役の与兵衛は、錦之助の歌舞伎時代からのライバル中村扇雀だった。映画俳優としては鳴かず飛ばずだった扇雀が熱演して高い評価を受け、映画もヒットした。その時、錦之助は歯ぎしりするほどの悔しさを味わった。昨年の秋の終わりのことである。(東宝カラー作品『女殺し油地獄』は、堀川弘通監督、橋本忍脚本、新珠三千代、中村鴈治郎共演、昭和32年11月公開)
 また、一昨年の夏に、近松原作の映画を内田吐夢監督が撮るという話を人づてに聞いた時には、錦之助は自分にお声がかかるのではないかと心待ちにしていた。が、それも失望に終った。『暴れん坊街道』(昭和32年2月公開)は、「重の井子別れ」の映画化であり、配役上、自分のやれるような役はなかった。それで納得がいったのである。
 そんなこともあって、錦之助は近松の主人公を演じることをあきらめかけていた。それが、兄の三喜雄からの思いがけない知らせである。
「冥途の飛脚」の忠兵衛は、願ってもない役であった。
 そして、もし自分が忠兵衛を演じることになるとすれば、錦之助は何か宿縁のようなものを感じないわけにはいかなかった。忠兵衛は、今は亡き伯父の吉右衛門の晩年の当たり役だったからだ。(つづく)


『浪花の恋の物語』(その4)

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 錦之助が吉右衛門の忠兵衛を観たのはもう10年近く前のことであった。
 昭和24年3月、「恋飛脚大和往来」の「封印切」の場が新橋演舞場で再演され(昭和23年1月帝国劇場で上演され好評だった)、還暦を過ぎた吉右衛門が連日、忠兵衛を熱演していた。梅川は若き日の歌右衛門(当時芝翫)、八右衛門は脇役のベテラン市川團之助であった。
 当時16歳の錦之助は、同じ新橋演舞場でその前の演目に出演していたが、それが終わると顔を落として私服に着替え、客席に回って、食い入るように舞台を観ていた。
 その時の伯父の姿や顔つきが、断片的ではあるが今も錦之助の瞼に浮かんでくる。
 ふところの金を握り締め、全身をわななかせている姿。封印が切れて小判がこぼれ落ち、あわてて拾い集める姿。そして、小判を突き出して、勝ち誇ったように笑っている顔つき……。

 いつか伯父からこんな話を聞いたことを錦之助は覚えていた。
「梅忠」は、上方の義太夫狂言で、忠兵衛と孫右衛門(忠兵衛の実父で「新口村」の場で登場する)はもともとおやじ(三代目歌六)の当たり役だった。おやじは大阪生まれの上方役者だったから、成駒屋さん(初代鴈治郎)よりずっと前から忠兵衛をやっていたんだ。上京して、おやじは東京の舞台でも何度か「梅忠」をやっていた。私は子供の頃、おやじの忠兵衛を観て、覚えたんだ。
 それで、私は二十代の頃、市村座で一度忠兵衛をやったことがあった。おやじが孫右衛門だった。その時やった私の忠兵衛は評判が悪くて、それからずっとやらなかった。四十を過ぎてもう一度やったら、初日に病気になって、二日目からずっと休んでしまった。この年になって、また久しぶりにやって、やっと褒められたんだが、やり甲斐のある役だと思っている。
 
 忠兵衛の役は、あの世にいる伯父さんからの贈り物なのだろうか?
 いや、贈り物ではあるまい。芸に人一倍厳しかった伯父さんが自分に与えてくれたのは、きっと課題にちがいない。忠兵衛のような難役をどう演じるかという課題を出して、もっと演技の勉強をしろということなのだろう。
 そう考えると、喜んでばかりもいられない。忠兵衛をやるなら、気を引き締めて臨まなければなるまい。
 しかし、これでまた来年の楽しみが増えたと錦之助は思った。(つづく)


『浪花の恋の物語』(その5)

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 三喜雄が、企画部長の辻野公晴とともに、東京・笹塚にある内田吐夢の家を訪ねたのはクリスマス過ぎであった。年を越す前に、挨拶と簡単な打ち合せだけはしておきたかったからだ。
 辻野は、吐夢とは戦前から旧知の間柄だった。三喜雄は、吐夢と京都撮影所で挨拶をする程度で、直接会って話したことはない。巨匠吐夢の作品のプロデュースを担当するのも初めてなので、緊張していた。
 数日前、吐夢を訪ねた鈴木尚之が、「吐夢さんが監督を快く引き受けてくれたので、ほっとしたよ」と言っていたが、三喜雄も同じ気持ちだった。弟の錦之助が快諾することは分かっていたので、最初に鈴木から吐夢に打診してもらったのだ。鈴木の話では、錦之助が主演することも、成沢昌茂がシナリオを書くことも、喜んで了承したという。
「梅忠」映画化の話が持ち上がって、わずか一週間で、監督、脚本家、主演者が決まったのだが、まだこれから先が大変であることは、三喜雄も十分承知していた。本社の企画会議にはかったところ、幹部から消極的な意見が出て、まだ製作決定にまでは至っていない。大阪の商人と遊女との悲恋話では、立ち廻りもなく、東映向きではない、というのである。
「会社も慎重になるんだよ。それに吐夢さんが監督するとなれば、大作になること間違いないし、金も日数もかかるからな」と辻野が言った。
「錦之助もやる気満々ですし、なんとか企画が通るようにぼくも頑張りますので、よろしくお願いします」と三喜雄は辻野に頭を下げた。
 辻野は、マキノ光雄亡きあと、企画段階で錦之助出演作のほぼすべてに関与し、また、三喜雄が錦之助主演作品をプロデュースするのをこれまでずっと積極的に支援してきた人物である。沢島忠監督の『一心太助』と『殿さま弥次喜多』シリーズ、柴田錬三郎原作の『源氏九郎颯爽記』『剣は知っていた 紅顔無双流』、そして『風と女と旅鴉』『浅間の暴れん坊』などはすべて、三喜雄(タイトルでは小川貴也)と辻野の共同プロデュースであった。
「吐夢さんにもきっと何か考えがあると思うんだ。巨匠、あれでいてなかなかの戦略家だしなあ」
 東映内では皆、吐夢のことを、畏敬の念を込めて「巨匠」という名で呼んでいる。それは、彼の映画だけでなく、体格もまた、並外れてスケールが大きいためである。撮影中は怖くて近寄りがたいが、普段は温顔に微笑をたたえ、言葉遣いも丁寧で、人当たりもよい。

 吐夢は、愛想よく辻野と三喜雄を迎えた。
「鈴木君から話を聞いて、近松のああいう世話物を東映でやるのは難しいんじゃないかと思ったんですけどね」と言うと、吐夢は話を続けた。
「東映の時代劇は、侍かやくざが主役で、チャンバラが売りものですからね。わたしが前に撮った『暴れん坊街道』は、近松の原作でも親子の話で、現代にも通じるテーマでしたから、チャンバラがなくてもドラマになりましたが……」
「いやあ、あれはいいシャシンで泣けましたよ」と辻野は言った。お世辞ではなく、本当のことだ。三喜雄もすぐに辻野の言葉を継いで、
「ぼくもです」と言った。
「それで、今度の『梅川・忠兵衛』なんですが、亡くなった溝口さんならリアリズムで追い詰めて描くでしょうが、わたしは男女の情話みたいなものは苦手ですからね。近松が生きていた時代の大阪の社会的経済的な背景から男女の悲劇を描いてみようかと思っています。当時の大阪は商人が台頭して、金の力がものを言う社会が成立していたんですね」
 辻野も三喜雄も頷きながら、吐夢の話を聴いている。
「これは成沢君とも話し合って決めなければならないことなんですが、テーマは、金が人間を支配する社会の中で反逆した人間の悲劇でしょうかね。今度の映画では封印切りが沸騰点になるんでしょうが、いろいろな内面的な葛藤があって、それが煮詰まって、封印切りという行動に至らしめたと解釈したいんです」
 吐夢の弁舌はよどみない。「梅忠」の映画の内容が社会性を帯び、ぐっと深まってくるから不思議である。(つづく)


『浪花の恋の物語』(その6)

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 初めは巨匠の前でかしこまっていた三喜雄も、だんだん打ち解けてきた。正座を崩さずニコニコしながら話を聴いている三喜雄を見て、吐夢が言った。
「いやあ、実は、錦之助君に対しては申し訳ないなと思っていたんです。『大菩薩峠』で3年間も宇津木兵馬をやらせてしまいましたからね。来年の春、完結篇を撮ってから、次は錦之助君の主演作をぜひ撮ってみたいと思っていたところに、この話が来たんで喜んでお引き受けした次第なんです。忠兵衛はまったく違った役になりますが、今の錦之助君なら十分演じられるでしょうし、大いに期待しているんですよ」
 そう言われて、三喜雄は、弟のことながら、嬉しさで胸がいっぱいになった。
「忠兵衛は錦之助がずっとやりたがっていた役ですし、内田先生の作品ということで、錦之助も大変喜んでいるんです。ぼくも同じ気持ちです」
 吐夢はほほ笑みながら、辻野のほうを見て、
「弟思いのプロデューサーがそばにいて、錦之助君も幸せですな。辻野君も全面的に協力してあげないといかんな」と言った。
 辻野は、自分に向けられた吐夢の言葉に、この企画を実現させろという吐夢の指示を感じとり、あわてて「はいっ」と答えた。
「ところで、相手役の梅川のほうですが、ひとり、考えてる女優がいるんです」
 辻野も三喜雄も思わず膝を乗り出し、吐夢の顔を覗き込んだ。
「ほー、だれですか?」と辻野が尋ねると、吐夢はちょっと照れくさそうな表情を浮かべながら、それでもきっぱりと言った。
「有馬稲子です」
「ああ」と辻野は言うと、合点がいったように首を縦に二、三度振った。
 三喜雄はハッとして、口をぽかんと開けたまま、すぐに有馬の顔を思い浮かべた。有馬には一度も会ったことがないので、雑誌のグラビアか何かの写真の顔である。そしてすぐに、錦之助が「有馬稲子と共演したいなあ」と何度も言っていたことを思い出したのである。
「この前の映画に少しだけ出てもらったんですが、なかなかファイトのあるいい女優でしてね」と吐夢が言った。
 その映画とは、今年の秋に吐夢が撮った『森と湖のまつり』(昭和33年11月26日公開)であった。アイヌと日本人の問題をテーマにした武田泰淳の長編小説を植草圭之助が脚色し、東映東京撮影所で製作した現代劇のカラー大作である。主演は高倉健、共演に三國連太郎、香川京子、中原ひとみ、藤里まゆみ、そして有馬稲子が特別出演した。吐夢は、高倉健の相手役として最初、左幸子を希望したが、日活の専属女優だった左は五社協定のため出演することができなかった。そこで次に有馬稲子を候補に上げ、出演交渉をしてもらったところ、北海道ロケが長期に及ぶことを有馬が聞いて、その役を辞退した。それで、香川京子になった。しかし、有馬は、吐夢のこの映画にぜひ出たいと思い、東京でのセット撮影ならオーケーして、一場面だけ特別出演したのである。釧路のスナックのマダムの役であった。(つづく)


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